十字架の福音

芹野 創牧師

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日(コリントの信徒への手紙二 6章2節)

 

 本日の旧約書の聖書日課は大男ゴリアトと少年ダビデの戦いである。戦いはダビデの勝利に終わるが「ダビデの手には剣もなかった」(サムエル上17:50)という言葉がこの物語の大きなメッセージである。人の身を守り人生のあらゆる闘いに必要なのは、剣や槍という人が用意した知恵や力ではなく「神の守り」である。「神の守り」を「恵み」という言葉で表現することもある。

 

 新約聖書の聖書日課であるコリントの信徒への手紙では「恵み」という言葉が使われている。そして本日の箇所は「神の恵み」という抽象的な言葉を、なんとか具体的な生き方に結びつけようとする使徒パウロの手紙である。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント二6:2)。使徒パウロにとって「神の恵み」に応えることが「奉仕」であった。しかし時に「奉仕」が誰かの躓きになってしまうこともある(コリント二6:3参照)。また使徒パウロは、宣教という奉仕の一生懸命さが社会の混乱になることも知っていた(使徒言行録19章参照)。それは人々に驚きを与え、価値観に大きな変革をもたらすことがあるからである。このとき大切なことは混乱する社会に、どう向き合うのかということであろう。

 

 ドイツの哲学者ヤイパースの「責罪論」という本がある。この本は第二次世界大戦直後、敗戦国ドイツの罪について考察した本である。ヤイパースは戦争の罪について「刑法上の罪」「政治上の罪」「政治上の罪」「形而上的な罪」に分類して考察している。「形而上的な罪」が興味深い。それは例えば「あの戦争であの人は死んでしまったのに、何故私が生き残ったのか」という意識である。何とも言い難い罪悪感があり、この意識は刑法的にも政治的にも道徳的にも裁けない。「生き延びた」と表現することもできるが、「生き残ってしまった」という意識を抱かせることも事実である。これが「形而上的な罪」だという。

 

 人は4つ目の「形而上的な罪」を省いてはならない。それは人生の意味、人の存在意義に関わるものである。「形而上的なもの」が「神の守り」、「神の恵み」に対する関心を私たちに抱かせる。この世の混乱を収めるのは人の力ではなく「神の守り」、「神の恵み」であり「十字架の福音」である。「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15:31)という罵声と矛盾の中に「本当にこの人は神の子だった」(マルコ15:39)という告白があり、人生の意義を見出す人がいる。これこそ「十字架の福音」である。