ヨハネのように

芹野 創牧師

 

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(マルコによる福音書1章4節)


 人は現代社会が「荒れ野」であるかもしれないということに気づかない。現代社会の「荒れ野」とは現代における「人と人との関係性の希薄さ」である。哲学者パスカルは人間生活の中にある「気晴らし」に目を向け「人間は死と悲惨と無知とをいやすことができなかったので、自分を幸福にしようとして、それらをまったく考えないようにした」と語る。

 現代社会の発展とは「気晴らし」の手段を豊富にしていくことであったかもしれない。しかし豊富になる「気晴らし」の手段は人間を二つに分けてしまった。「気晴らし」ばかりをしているのに「毎日楽しい」と思いながら生きる人と、「気晴らし」が「気晴らし」に過ぎないことに気づき「何のために生きているのか」といった人生の深い問い、人生の虚しさに悩み始める人である。それが現代社会の抱える「荒れ野」の姿だろう。

 聖書は福音の始まりがこの「荒れ野」であることを語る(1:1,4)。しかし私たちが「荒れ野」にいるという認識がなければ、福音は始まらない。だからと言って「教会が福音とは何かを教えてあげる立場」に立ってしまわないように気をつけたい。その時、教会は福音に「生かされている」のではなく、福音を「押し付けている」ように見えてしまう。

 韓国の小説家イ・ギホ氏の短編小説集『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』は、「親切であること」を考えさせられる小説である。善行を行っているつもりで「誰にでも親切である」という姿が、現代社会の抱える「荒れ野」を見えにくくしてしまう不思議さを感じた。「気晴らし」が「気晴らし」に過ぎないことに気づき人生の虚しさに悩む時、人に必要なのは「誰にでも親切な態度」ではなく「福音とは何かを教えてあげること」でもなく、本当にその人の抱える現実に寄り添い生きようとする態度なのであろう。

 人は現代社会のヨハネと出会う中で、この社会が「荒れ野」であることを知りキリストの福音に出会う。この時キリスト者は誰もが現代社会に生きるヨハネになり得る。ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(1:5)。そこには隣人への赦しと愛がある。それは「誰にでも親切な態度」のつもりで「福音とは何かを教えてあげる」ことでもなく、本当にその人の抱える現実に寄り添い生きようとする態度でもある。その生き方は、私たち自身があらゆる苦悩を背負うキリストの十字架と復活という福音に繋がっているだけではなく、ヨハネのようにその福音を指し示す姿に違いない。