インマヌエル

芹野 創牧師

 

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である(マタイによる福音書1章23節)

 

 クリスマスの物語は喜びばかりではない。ヘロデ王による2歳以下の男の子の虐殺という悲惨な出来事があった(2:16-18参照)。しかし悲惨な出来事の発端となったキリストの誕生に際して、聖書は「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である」(1:23)と語る。「神が我々と共にいる」という言葉を最も必要としたのは誰だったのだろか。

 日本教育新聞の社説に12月は「忙しさと静けさが同居する季節」との社説があった。「文明の利器が発達し、さまざまな雑務から解放されたはずなのに、一層忙しくなった。動と生ばかりを追求し、静と死を見つめることを怠ってきたことがあるのではないか。令和2年度の20代や10代の若者の自殺死亡率が大幅に上昇した。先を急ぐ人は、立ち止まっている人や歩みの遅い人を待てないし、見ていない。絶え間なく続けてきた教育改革の流れを中断し、死を見つめている人々に寄り添ってみるという視点を持ちたい」。

 クリスマスは神の子イエス・キリストの誕生という喜びの時であるが、その背後で犠牲になった多くの命があることを聖書は伝えている。クリスマスは神の愛と喜びを分かち合う時であり、暗い闇の中に希望の光を見出す時である。しかしそれは悲しみや悩みに蓋をして目を背けることと同じではない。「希望を語ることのできない社会」は生き辛い。しかし「希望ばかりしか語ろうとしない社会」はもっと生き辛いのである。その時、人は「静けさと死」を、悲しみや悩みを分かち合う相手を選んで良いのだ。そこに人間の尊厳と自由がある。私たちは「本当につながっているべき存在」を自ら選んでいかなければならない。社会学者の鷲田清一さんは「信頼の根を養う」ことの大切さに触れつつ「信頼できる専門家とは、特別な能力のある人でも、自分たちに代わって責任をとってくれる人でもなく、誰にも答えの見ない問題を「一緒に考えてくれる人」のこと」と語る。

 「インマヌエル」は悲しみと嘆きの中でこそ噛み締めていくべき言葉であろう。「神は我々と共にいる」という言葉が、すべての悲しみや悩みを抱える人にこそ語られた言葉であるから、人は自らの尊厳と自由にかけて「我々が神と共にいること」を選ぶのである。私たちは「本当につながっているべき存在」を選ぶ側にも立っている。与えられたものを感謝して受け止め、深い信頼を寄せて「我々が神と共にいること」を選びたい。