ベツレヘムと十字架

芹野 創牧師

 

ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない(マタイによる福音書2:6)

 

 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(2:1)。ヘロデはユダヤの南にあるイドマヤの出身だった。ヘロデを「ユダヤの王」と呼んでいたのはローマの人間である。歴史的な経緯から見る限りヘロデ王の王位が保証されているのは、ローマ帝国の大きな後ろ盾があるからである。「ユダヤの王」と「ユダヤ人の王」には大きな違いがある。そのことを一番よく理解していたのはヘロデ自身だっただろう。東方からやって来た学者たちは、あの時代の中でローマ帝国という絶大な軍事力の後ろ盾を持つ「ユダヤの王」ではなく「ユダヤ人の、ユダヤ人による、ユダヤ人のための王」を探すためにやって来たのである。この時、マタイ福音書で「ユダヤ人の王」という言葉が出てくるのは「ベツレヘムと十字架」の場面だけであることを忘れてはならない。キリストは人が留まる場所ではないところに生まれ、人が留まることを恐れ立ち去る場所で死なれた。この「ベツレヘムと十字架」がキリストの歩みを象徴している。

 憲法第10条「日本国民たる要件」の「国民」の意味を、戦後在日朝鮮人という観点から考えてきたNCC総幹事である金性済(キム・ソンジュ)さんは、スリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが医療の助けを求めたにも関わらず無視され、ほとんど餓死状態で悲惨な死を遂げていたことを深く心に留めているという。そしてこう語る。「1946年2月にGHQから提示された憲法草案の「PEOPLE」を「国民」と訳すが、その「国民」とは、76年間の戦後史において在日外国人にとって何を意味するのか」。

 

 「PEOPLE」が「誰」のことを指しているのかは、聖書の示す福音に関わる問題でもある。この問題に対してマタイ福音書は「最も小さい者」という言葉を意識的に使っているように思う。ベツレヘムにキリストが生まれることについて「ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない」と語る。引用された旧約聖書ミカ書では「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者」(ミカ5:1)であり言葉を替えている。イエス・キリストにおいて「最も小さい者のひとり」が覚えられる(18:10、25:40等参照)。キリストの福音はこの世界で最も小さい者に光を当てそれを「小さくない」と言う。この社会が「小さい」と言って切り捨てるものを「小さくない」と言って拾い上げる。それがクリスマスの出来事であることを覚えつつ、来る年を迎えたい。