罪人に混じって

芹野 創牧師

 

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた(マルコによる福音書1:9)

 

 人間の罪は倫理的、社会的に悪とされる事柄だけを指すのではない。普段私たちは罪を意識し罪の実感を抱き悩むことはあまりない。罪に苦しむ人間の姿を使徒パウロは「わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18-20参照)と語る。「自己矛盾」は罪の一つの姿だが、今日「自己矛盾」に苦しむことは稀であるかもしれない。それほど深く自分を内省する機会がないからである。礼拝が自己を内省する機会になる場合もあるが、それは現代社会の中で意識的に時間を確保しなければならない事柄だと言える。使徒パウロのように自らを内省し、「私の中には善の皮を被った悪がある」という自己矛盾を抱えて生きることが「人間のあるべき姿であり、人生を豊かにするもの」であることを忘れずにいたい。なぜなら自己を内省する機会に恵まれなければ人は本当の意味で福音に出会うことはできないからである。

 聖書はキリストが洗礼を受けた出来事を語るが(1:9)、その洗礼は「罪の赦しを得させるため」(1:4)であった。ここに福音がある。人が自己矛盾に苦しみ悩む時、「その罪の苦しみ、自己矛盾の苦しみに混じって神の子も同じように苦しむ」ことこそ福音である。

 詩人の谷川俊太郎さんは「世界にあるどのようなものでも、ある視点で眺めればそこには詩情がある」と言う。「詩人の目」は「信仰の目」にもなり得る。

 2021年の年末、車で伊豆半島を横断し西伊豆で、駿河湾に沈む夕日を見て日没を迎えた。夕日を浴びて真っ赤に染まった赤富士を初めて見た。沈みゆく夕日を見ながら考えたことは、太陽の光だけを切り取って見ることができたとしても、「きっとそれほど美しいものではないだろう」ということである。私は太陽の光に感動したのではない。太陽の光は目の前に広がる景色の中に溶け込み混じっていたのである。

 

 人は自己矛盾に苦しみ悩むことがある。その中で人は赦し、慰め、癒しを求め一所懸命に探そうとする。しかし太陽の光だけを切り取って見ることができないように、罪の赦し、神の恵みや癒し、慰めは私たちの人生の景色の中に混じっている。それらは人生から切り取られた特別なものではない。人生の喜びや労苦を重ねつつ、罪の赦し、神の恵み、癒し、慰めをもたらすキリストの十字架が人生の景色の中に混じっていることを覚えたい。