キリストの招き

芹野 創牧師

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マルコによる福音書1:16)

 

 「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)。神がイスラエルの民を手に刻むと約束されたように、キリストは手に釘を打たれ、私たちをその体に刻み、私たちの存在と名前を覚えてくださるという福音のメッセージがある。

 作家で自閉症者でもある東田直樹さんは、ご自身が幼稚園に在籍していた時のことを次のよう語る。「僕と一緒に遊ぼうとしてくれた園児はいた。その子たちは先生から褒められましたが、他の子どもを助けたときと、僕を助けたときとでは、助けた園児を褒める先生の態度が違っていた。褒めることが誰も傷つけないわけではない」。その人の存在を受け入れ認めるということは、言葉によってのみ伝わるものではない。同じ言葉でも「言葉の違い」ではなくて「態度の違い」に傷つくこともある。そしてこういう出来事がその人の中で、どうしても忘れがたい人生の「具体的な時」となる。

 キリストが私たち一人一人の名を呼んで祈るということも「具体的な時」と深く関わっている(1:16,19を比較参照)。聖書は些細な違いを具体的に記し、キリストは人生の「具体的な時」を選んで人を呼ばれる。そして聖書はこの時、キリストに出会う人々の微妙な反応の違いも描いている(1:18,20比較参照)。人によって捨てるものが違うが、この物語で共通していることは、キリストが「わたしについて来なさい」と言って、人の生き方に関わる信仰的な決断を求めていることである。出エジプト記のモーセの物語が思い出される。イスラエルの民をエジプトから導き出すように命じられたモーセは、自分の不利な条件、不安要素を並べて断ることに必死であった(出エジプト4:10-13)。


 何かを決断しなければならない時、人はその決断に伴う不安要素から逃げることはできない。この時、人が求めるのは決断に伴う安心材料である。どんな決断でも、その決断が重要であればあるほど不安要素は消すことができない。しかしそこにこそキリストの十字架がある。信仰的な決断とは、不安を取り去り全く考えないことではない。むしろ押し潰されそうな不安の中で、その人らしさを受け入れ、一人一人の名前を、それぞれに最もふさわしい方法で呼んでくださるキリストを思い返すことであろう。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となる」(ローマ8:28)との御言葉と共に、キリストの十字架が私たちの不安を十分に支え得るものであることを覚えたい。