沈黙の力

芹野 創牧師

 


イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。(マルコによる福音書1:25-26)

 

 聖書はキリストを「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(1:22)と語る。律法学者は「聖なるもの」と「俗・汚れ」を分離して、汚れに近寄らない生活を美徳としていた。しかし物事を「聖」と「汚れ」に、「白」と「黒」に切り分けて生きようとする時、私たちは明確に切り分けることのできない「灰色の世界」があることに気付かされる。聖書がキリストの姿を「律法学者のようにではなく」(1:22)と記しているように、キリストが見ていたのは「灰色の人間」の現実であるように思う。

 人は心の病める存在に誰もがなり得るということを忘れてはならない。どんなに感動的な言葉に出会っても言葉一つで全てが変わるわけではない。白と黒が混在した支離滅裂な心境に苦しむこともある。周囲の人がどれだけ誠意を尽くした言葉をかけても、人にはそう簡単に届かない心の重荷のようなものがある。そういう時にこそ人は言葉の力だけに頼るのではなく「沈黙の力」を借りなければならない。

 汚れた霊と出会ったキリストは「黙れ。この人から出て行け」と語る(1:25)。ここには二つの命令がある。「黙れ」と「この人から出て行け」である。しかし「この人から出て行け」は汚れた霊に言った言葉であり、「黙れ」はこの人に言った言葉ではないだろうか。実際には相手が汚れた霊であっても霊に取り憑かれた「この人間」に向けて語るしかないし、また事実「この人間」に向けられた「沈黙」の命令である。

私の最初の任地である平安教会では教会の集会ホールを「AA」というアルコール依存の方々のための自助グループ団体に貸していた。この会には「語る者の話を黙って聞く」、「話を決して遮らない」というようなルールがあった。そういうルールの中で、参加者は自らの経験やアルコール依存の苦悩を語り出す。話を聞く者は、語られた言葉に共感し、励まされ勇気つけられ癒される。語る者は、黙って耳を傾け、自分の話を決して遮らないで聞いてくれる沈黙の態度に癒される。その時「沈黙」は「信頼の証」になる。

 

 人は言葉の力を借りることだけではなく、沈黙の力を借りなければならない時がある。キリストが十字架で人の苦しみを全て担うが故に、人を苦しめる霊に向かって「この人から出て行け。この人から人生の喜びや祝福を奪うことはゆるさない」と言って闘われる時こそ、そのキリストの十字架に信頼して祈りつつ、私たちは「沈黙の力」を借りるのだ。