神への信頼

芹野 創牧師

 

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか、それは、からし種のようなものである」(マルコ4:30-31)

 

 「人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」(4:33)。私たちもその時々の境遇の中で聖書の御言葉に力づけられる。御言葉は人生の中で何度でも味わうことのできる心の糧である。本日の「からし種のたとえ」(4:30-32)は「小さなもの」から大きな神の御業が生まれることを示す。小さなからし種から、人々が期待もしないような驚くべきことが生まれる。この驚くような変化が「神の国に似ている」というのだ。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とあるように「小さなもの」から生まれる神の御業が私たちの生活の中に隠されていることを心に留めたい。その神の御業は人が努力して作り出すものではない。しかし人には怠ってはならない努力もある。

 諏訪中央病院の名誉院長でもあり、作家の鎌田實さんは「無理する時間と無理しない時間の間をいったりきたりしてみませんか」と提唱している。そして「無理が全ていけないわけではない。人生を切り開くためのしなければならない無理もある」とも語る。

 私たちは本当に頑張るべきこと、努力すべきことのために生きなければならない。必要のないことに力を注ぎすぎてはならない。このことは別の言い方をすれば、人は本当に多くのことに力を注ぐことができるということである。私たちが本当に力を注ぐべきことは「神への信頼」ではないだろうか。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である」(マタイ22:37-38)という御言葉をよく考えなければならない。そして「神への信頼」の具体的な中身こそ、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6-8)とあるように「キリストの十字架への信頼」である。

 

 人は誰でも「小さなからし種」を持っている。しかしからし種の「小ささ」から驚くべき神の御業が生まれると知っていても、人はからし種の「小ささ」にばかり目を向けて、傷つき、悩み、悲しむことがある。一体なぜだろうか。それは私たちが本当に見ているのはからし種の「小ささ」ではなく、からし種の小ささの故に生み出される不安と悩みの「大きさ」の方だからである。本当に純粋に「小ささ」に目と心を向けていくことは難しい。しかし「キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」という福音のメッセージと共に「神への信頼」を思い起こしたい。