気持ちを分かち合って

芹野 創牧師

 

 神の御心で旅立った船なら不幸や災害は起こらないというのだろうか。宗教とご利益が結びつくと「不信仰な者は不幸になり、信仰を持つ者こそが幸福になれる」という図式になるだろう。しかしキリストは「決してそうではない」と断言する(ルカ13:1以下参照)。

 キリストの「向こう岸に渡ろう」(4:35)という呼びかけに従って漕ぎ出した船であっても激しい嵐に象徴される災害や困難に直面するということを聖書は語る。湖が平穏の時、不安や悩みも少なく心が穏やかな時、弟子たちはキリストの存在を忘れかけている。それは私たちの生活の中でも決して珍しくない。キリストが共にいることを知っていても、それが揺るぎない信仰であるとは限らない。結果的にキリストが嵐を鎮め船は向こう岸に辿り着くが、私たちは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(4:40)というキリストの問いかけを忘れてはならない。聖書が示す人間の現実とは、このキリストの問いかけに全く答えることができなかったということである。嵐を鎮めるように、不幸や災い、人生の困難な状況を見事に取り去る奇跡の大きさにばかり注目し、弟子たちは「いったいこの方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(4:41)と驚くことしかできなかったのである。それは私たちの姿でもあり人間の現実ではないだろうか。

 生活コラムニストのももせいづみさんという方が興味深いデータを紹介している。あるカード会社が共働き世帯を対象に行ったアンケートで、約半数の人が「家事分担が原因でケンカになったことがある」と回答したという。ももせいづみさんは「分担」と「シェア」の違いについて、分担は「作業を振り分けること」であり、シェアは「分かち合うこと」。大事なのは作業だけではなく「気持ち」の部分をも分かち合うことだと指摘する。「気持ちを分かち合うこと」がいかに難しく定義のしがたいことであるかを改めて感じる。

 本当に全てを分かち合うことが、実は極めて難しいことだということを私たちは忘れてはならない。なぜなら、その難しさこそがキリストの十字架を「神の恵み」として受け入れることができるかどうかの分岐点だからである。本当に全てを分かち合うという極めて難しい事柄は、決して「一日に成らず」である。そのために時間をかけ、心をかけ、最後には命までかけるキリストの十字架を私たちは「神の恵み」として受け止めているだろうか。キリストの十字架の元でそれぞれに気持ちを分かち合う者でありたい。