祈りの力

芹野 創牧師

 

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコによる福音書3:23-24)

 

 悪霊に象徴される病や病に伴う身体的な苦しみ、精神的・心理的な苦しみ、生きる上での尽きない悩みは何によって解消されるのだろうか。私たちに知らされていることは「悪霊が悪霊を追い出すこと」はできないということである(3:23-27参照)。しかし私たちの現実は、悪霊に象徴される人生の様々な苦しみに足を取られ、まるで「悪霊が悪霊を追い出す」かのように、結果的には負の連鎖を繰り返してしまうことがしばしば起こる。

 

 宗教改革者マルチン・ルターは「私たちはただ神の力を知っているだけでは十分ではない。悪魔の力を知らなくてはならない。そしてその力強い悪魔に打ち勝つことのできない自分の弱さを知って、ただ福音にのみ頼ることを学ばねばならない」と語ったという。私たちは、自分を苦しめる物事を取り除くことができればすべてが解決すると思い込んでいる。しかし「苦しみの原因」は「悪霊」という「私たちの外からやって来る何か」ではなく、「自分自身の中」に埋もれていることもあるのだろう。「力強い悪魔に打ち勝つことのできない自分の弱さ」に目を受けつつ、そこから何ができるかを考えることも必要である。

 

 マルコ福音書には「汚れた霊に取り憑かれた子どもを癒す」という物語が描かれている(9:14以下参照)。キリストは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(9:29)と語る。しかし祈ったからといって私たちの生活が一変するのではない。むしろ「祈り」はすぐには形にならない。うまく整わないことは悪いことではなく「祈り」に向かっていく大切な道のりなのである。

 

 社会学者の鷲田清一さんは、人には「聴くに聴けないことがある」という微妙な人間関係の根底にある、「言葉を預ける」という感覚について語る。「迎え入れられるという、あらかじめの確信がないところでは、人は言葉を相手に預けない」。

 

 私たちにとって「言葉を預ける相手」とは誰であろうか。「あらかじめの確信がないところでは、人は言葉を相手に預けない」という現実の中で、私たちはキリストに深い確信をもって言葉を預けているだろうか。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩篇51:18-19)。そういう「祈り」を経て人は初めて福音に触れ、十字架の意味を知る。キリストの十字架を知り、そのキリストに「言葉を預ける祈り」は「悪霊を追い出す力」として福音にのみ頼る「祈り」となるのだ。