福音への執着

芹野 創 牧師

 

ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。(マルコによる福音書9章5節)

 

 「山上の変容」と言われる本日の箇所は「キリストの復活」と関わりがあるようだ。9節以下には復活を示唆する言葉がある(9:9-10)。キリストの十字架と復活という出来事があってはじめて「意味のある物語」として受け止めることができるのだろう。ただ福音書を時系列に読む限り、この時点で弟子たちは十字架も復活も知らない。そう考えると本日の箇所は、十字架と復活という「福音のメッセージを知らないところ」で、人は何を恐れ、何を願い生きようとするのかということが描かれた物語であると言えるだろう。

 

 ペトロの言動には十字架を抜きにした「輝かしい未来」だけを願い、「苦難」を恐れる人間の姿がある(8:27-33,9:5参照)。もしキリストの姿が「真っ白に輝く」(9:3)ことではなく、苦しんで十字架を背負う姿を予兆するものだったなら、ペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」とは語らなかったに違いない。人は多くの場合「苦難」ではなく「輝かしい未来」にこそ価値があると考える。しかし「輝かしい未来」だけにしか人生の価値がないと思い込んではならない。復活を予兆した「山上の変容」を「すばらしい」と称賛し、十字架を予兆したキリストをいさめるペトロの姿は「輝かしい未来」だけにとらわれた人間の姿でもある。「福音のメッセージを知らないところ」で、人は「苦難」を恐れ「輝かしい未来」にだけ価値をおいて生きていたいのである。

 

 そういう人間の姿を「執着」という言葉で表現した哲学者シモーヌ・ヴェイユの言葉が印象的である。「この世の現実は、わたしたちがわたしたちの執着をもってつくり上げたものである。それはあらゆるものの中に、わたしたちが運びこんだ「われ」の現実である」。

 

 私たちは何に「執着」しているだろうか。「執着」は良くも悪くも世界を動かす。その一つがキリストの十字架である。福音書にはキリストを妬む人々の姿が描かれている。しかし十字架は必ず復活へと続く。「執着」が良くも悪くも世界を動かすなら、キリストの復活が「福音への執着」を生み出すことを私たちは知るべきである。使徒パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(コリント一9:20-24)と語る。このような「福音への執着」の中で、私たちは福音に出会ったのである。十字架を生み出すほどの「執着」は形を変えながらいつも時代でも存在する。しかし同時に「福音への執着」も存在する。そこに私たちの信仰がある。