慰め、励まし、癒しの源

芹野 創牧師

 

異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する(マルコによる福音書10章34節)

 

 人生の慰めや励まし、癒しはどこからやって来るのだろうか。実に「慰めや励まし、癒し」は十字架の苦難から始まるのである。キリストの十字架は「慰め、励まし、癒しの源」ではあるが、しかしそれは始まりに過ぎない。その後に続く復活があってはじめて苦難の十字架は「慰め、励まし、癒しの源」となることを忘れてはならない。

 

 そのことを忘れ、苦難の十字架しか見ないとき人は十字架の故につまづくことがある(コリント一1:18など参照)。私たちは関心は多くの場合、祝福に満ちた人生をいかに実現するかということにある。ヤコブとヨハネの関心も「お願いすることをかなえていただきたい」(10:35)という点でよく似ていると言える。しかしキリストは彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(10:38)と語った。私たちは自らが願い求めた祝福だけが与えられる考えてはならない。神は確かには慰め、励まし、癒しを与えてくださるに違いない。しかし神は大きな祝福と同時に苦難をも私たちに与えられるのである。そして多くの場合、人生に訪れる苦難は「簡単には語り得ないもの」ではないだろうか。

 

 言葉に出来ずに飲み込んだ苦悩が、実はそのままでは終わらず、深い慰め、癒しを伴ってその人の心に宿るのではないかということを思わせる言葉がある。詩人ゲーテの言葉である。ゲーテは「言葉にならない苦悩」を「悲しみのなかにあるパン」と表現した。「悲しみのなかにそのパンを食したることなき人は、真夜中に泣きつつ過ごし、早く朝になれと待ちわびることなき人は、ああ汝天界の神々よ、この人はいまだ汝を知らざるなり」。

 

 人は簡単には語り得ない悲しみを「パン」として食し心に納めることがある。しかし言葉に出来ずに飲み込んだ苦悩であっても、「悲しみのなかにあるパン」を食した者は、ただ唯一、神だけはその苦悩の全てをよくご存知であることを知っているというのだろう。

 

 

 人生の慰め、励まし、癒しはどこからやって来るのだろうか。それは「悲しみのなかにあるパン」を食し、深く味わったことのある者のもとからやって来る。それは神に与えられたあらゆる苦難、簡単には語り得ない苦悩を背負いつつも、神は大きな祝福と同時に苦難をも与えられる方であることを知るが故に、前を向いて歩み続ける者のもとからやって来るのである。私たちはここにキリストの姿を見るのだ。苦難の後に続く復活の故に、苦難の十字架が「慰め、励まし、癒しの源」であることを覚えたい。