本当に泣く者と共に

芹野 創 牧師

 

わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい(マタイによる福音書14章34節)

 

 キリストが教えた「主の祈り」は「祈り」の模範であると言える。しかし十字架を前にしてキリストは自らが示した祈りの模範に従わなかった。むしろ「この杯をわたしから取りのけてください」(14:36)と祈ったのである。しかしそれは、私たちにも通じる祈りではないだろうか。ゲッセマネの祈りには自分のことを優先し、自分の幸せを祈る人間がいる。キリストご自身が恐れ悩み、自分のことを優先してしまうような人間になられたのである。私たちと同じように恐れ、悩み、傷つき、苦しむ十字架の神は、復活の神でもあることを覚えたい。それが私たちの信じる福音の出来事である。

 

 さてゲッセマネの祈りには3人の証人がいた(14:33)が、彼らはキリストと共に目を覚まして祈ることができなかった。苦しむ者と共に目を覚まして、この社会の出来事や他者への関心を失わずに生きることは私たちが考えている以上に難しいことかもしれない。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)との御言葉が思い出される。私たちは「悲しむ人と共に悲しみなさい」ではなく「泣く人と共に泣きなさい」と勧められている。社会生活を送る上で気丈に振る舞いながら、しかし心の中では「見えない涙でいっぱいである」ということは決して珍しくない。心の涙は人の目には触れない。「本当に泣いている者」に気づくのは難しいのである。

 

 社会学者の岸政彦さんは「本当に泣いている者に気づく難しさ」を、「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの」と表現する。ネット社会を反映した表現であると同時に人間の本質をついた言葉でもある。「本当に泣いている者に気づく難しさ」は、「誰にも隠されていないはずなのに、誰の目にも止まらない」というところにあるのだろう。

 

 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34)。キリストは弟子たちの前で涙を流し泣いたわけではない。その意味でキリストは泣かなかった。しかし「本当は泣いていた」のである。弟子たちは眠り、その涙に気づかなかった。ここにキリストの受けた試練がある。しかしその試練は「本当に泣いている者」と共に祈り、苦しみの十字架を背負うためにあった。「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:17-18)。