心と身体に平安を

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた(ヨハネによる福音書20章19節)

 

 キリストが復活された朝、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ」(20:19)閉じこもっていた。「家の戸に鍵をかけて」というのは物理的な安全確保だけではなく心理的に外部との関係性を遮断する印象もある。弟子たちはキリストを裏切った自責の念と不安の中で閉じこもることしかできなかったのかもしれない。

 

 不安は私たちの人生に伴う同居人である。私たちはこの同居人と生涯向き合っていかなければならない。「不安の解消」が福音のメッセージではない。聖書が語るように復活のキリストがもたらす福音とは、不安を消し去ることではなく、平安を新しく迎え入れることである。私たちは不安という同居人を追い出すのではなく、平安という新たな同居人を迎え入れるのだ。キリストのもたらす平安とは、マタイ福音書で語られるように「神が共におられる」(マタイ1:23)という出来事である。

 さてヨハネ福音書の復活の記事には、キリストが十字架の傷を弟子たちに示すという記述がある(20:20,27)。キリストは自ら十字架の傷を示し「あなたがたに平和があるように」と語る。「神が共におられる」という平安の出来事は、私たちの心だけではなく、身体でも感じ味わうことのできるものかもしれない。

 

 作家・堀辰雄の残した数少ない詩の中に、関東大震災の体験から生まれた詩がある。「風のなかを/僕は歩いていた/風は手袋の毛をむしり/風は皮膚にしみこむ/その皮膚の下には/骨のヴァイオリンがあるといふのに/風が不意にそれを/鳴らしはせぬか」。

 

 関東大震災で堀辰雄は母を喪う。風を身体で感じるたびに、震災の記憶がよみがえるのであろう。「皮膚の下にある骨のヴァイオリン」というのは比喩であるが、「風がそれを不意に鳴らす」という言葉が印象的である。人は悲しみを心だけではなく身体でも記憶していることを思わせる。しかしもし身体が悲しみを記憶するのであれば、私たちは「神が共におられる」という平安の出来事を同じように心と身体に刻むことができるのではないだろうか。

 

 私たちは自らの心にも身体にも、生涯向き合っていかなければならない。時にそれは人生に不安をもたらす。健康の故に、年齢の故に、私たちの身体の状態が不安を一層掻き立てることがある。しかし私たちは自らの身体と向き合って不安を消し去るのではなく、その不安のただ中に「神が共におられる」という平安を新しく迎え入れるのである。