真の自由を求めて

芹野 創 牧師

 

「わたしは羊の門である」(ヨハネによる福音書10:7)と「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネによる福音書10:16)

 

 キリストは「わたしは羊の門である」(10:7)と言われた。マタイ福音書では「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(マタイ7:13-14)とある。狭い門は、その狭さの故に身をかがめ小さくならなければ通ることができない。この狭き門こそキリストの十字架である。

 

 「わたしは羊の門である」という言葉は「わたしは苦しんで命に通じる十字架を背負う」という宣言でもある。この十字架という門には「門を出入りして」(10:9)とあるように、出入りする「自由」があり、牧草という言葉に象徴される「命の糧」が備えられている。そして「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(10:16)とあるように「自由」と「命」を備える十字架の門には囲いがある。「自由」と「命」には「囲い」という「制限」が必要なのである。聖書は創世記において、「制限」こそ人に与えられた最初の「自由」であったことを語る(創世記2:16以下参照)。

 

 しかし現実には、何かを「制限」される中で、人は苦しみと悩みに直面することがある。コロナ禍での「緊急事態宣言」から、私たちが学んだことは「保証」を顧みない「制限」は信頼を失うということであろう。その時「制限」は「束縛」に姿を変えてしまう。では「自由」と「命」の保証はどこにあるのか。悩み尽きない人生の中で、ようやく与えられたキリストとの出会いを、葛藤しつつも「受け入れて」いく時、人は「自由」と「命」の確かな保証を見出す。

 

 幼稚園の「園だより」の巻頭言で、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)という聖句をめぐって、人が物事を「受け入れていく」ことの大切さに触れた。「SNSでは自分にとって不快な意見に耳を傾ける必要はなく、相手の意見を「聴く」というより、それが自分の意見と同じかどうかを選り分け、違う意見に対しては罵倒したりすることも起こり得ます。しかし人が物事を学び、成長するためには、自分とは異なる意見に対しても耳を傾ける態度が必要です」。

 

 キリストとの出会いもまた「聴くこと」、自分とは異なる意見に対しても耳を傾ける中に静かに埋もれている。キリストの十字架は私たちに「自由」と「命」を保証するために、「もうこれ以上、苦しんではならない」という「苦しみと嘆きの制限」となったのである。