キリストの中にとどまって

芹野 創 牧師

 

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハネによる福音書15章4節)

 

 聖書は人がその人生において豊かな実を結ぶためになすべき真理を語る(15:4-5等参照)。しかし実を結ぶという出来事は「この世での成功や物理的、経済的な豊かさ」だけを指しているのではない。キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語る。しかし「パン」という具体的な生活の糧もなければ生きることができない。人は「パン」も必要なのである。しかし「神の言葉」を忘れてはならない。物理的、経済的な豊かさに先立って、人は「神の言葉」を心に留める「信仰的な豊かさ」という実りを持たなければならない。最も大切な原則は「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(15:4)とあるように、人生における「信仰的な豊かさ」は「キリストから離れない」という生き方の結果だということである。

 高良留美子さんの詩集『その声はいまも』のタイトルは東日本大震災時、津波が迫り来るなか、防災マイクで最後まで避難を呼びかけた南三陸町職員の女性の声をモチーフとしている。「わたしはあの女(ひと)の声を聞いている/その声のなかから/いのちが蘇るのを感じている/わたしはあの女(ひと)の身体を呑み込んでしまったが/いまもその声は/わたしの底に響いている」。

 

 「津波」という自然現象が「わたし」という人格をもって擬人化される詩を通して、「命を奪われた者」と「命を奪った者」という関係性は、相手が人間でなくても途切れることはないということを教えられる。それは今日繰り広げられる戦争という現実の中でも同じである。「命を奪った者」が「命を奪われた者」の声に気付かされ、命の声に「とどめられていく」という不思議な逆説の中から、本当に心ある人間が生まれる。「人間はつねに加害者のなかから生まれる」。シベリア抑留を経験した詩人、石原吉郎の言葉が思い出される。

 

 

 「キリストの中にとどまる生き方」は私たちの自助努力ではない。むしろ私たちは「とどまる」という出来事が、自らの意思と自助努力によるポジティブな側面だけでなく、何かに「とどめられる」という出来事に支えられていることを忘れないでいたい。私たちはキリストの十字架の前に心を痛め「とどめられる」のである。しかしキリストの十字架は「命を奪われた者の声」であると同時に、神の赦しと癒しの「福音」である。キリストの十字架を覚え心を痛める時、キリストも私たちの苦しみや悲しみに中にとどまっている。