しばらくして

芹野 創 牧師

 

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)

 

 人生の大きな関心である「悲しみ」と「喜び」は時間的に「しばらくして」という形でつながっている。私たちの悲しみや悩みが「しばらくの間でその後に必ず幸せが巡ってくる」というのは、果たしてキリスト教の信仰だろうか。「しばらくして」という時間の経過が人生には必要なことがある。私たちは「時間の力」を借りて、悲しみや悩みの出来事に冷静になって向き合い、考え直し、気持ちを切り替えつつ「しばらくして」という時間を過ごすが、現実には「しばらくして」という時間的な経過が全てを解決しないことを私たちは知っている。悲しみは悲しみのままその人の中に留まり続けるのである。

 

 齋藤貢さんの「草のひと」という詩がある。「だから、草のひとよ。/もっと声高に語れ。/ここで安らかに眠るためには/声を荒げて、何度も言わねばならぬ、と。/汚れた土地を放置して、無防備に/世界を置き去りにしているのはいったい誰か、と。」。「汚れた土地を放置して」という言葉から、それが福島原発事故に端を発する放射能汚染であることを想像することができる。土地が「汚れた土地」として放置される限り、今は亡き「草のひと」にとって、時間とは一瞬たりとも途切れることのない苦悩そのものである。人には忘れてはならない傷がある。時間で物事を割り切っていく社会は、本当の意味で悲しみ傷ついた当事者たちを癒す術を知らない。

  

 人生には「時間の力」だけでは乗り越えられないものがある。悲しみに向き合う時、私たちに必要なのは「時間の力」だけではなく「福音」のメッセージである。それは「しばらくして」という「時間の力」を頼りに人生の悲しみや苦しみに向き合うのではなく、キリストが背負う苦難の十字架を自らの人生の歩みに刻み直すことである。十字架から復活まで三日という時間を要したように、自らの人生に苦難の十字架を刻み直すことは「時間のかかること」であり、人生の中で「本当に時間をかけて良いこと」の一つである。

 

 

 人生にキリストの苦難の十字架を刻む時、人は人生の主語に新しく「キリスト」を迎え入れる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。私たちがこの世界で悲しみや苦しみを味わわねばならない時、その悲しみや苦しみに打ち勝つのは「わたし」ではなく「キリスト」である。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」(ロマ6:8)。