十字架の時

芹野 創牧師

 

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(ヨハネによる福音書17章1節)

 

 「父よ、時が来ました」(17:1)。それは「十字架の時」である。この「十字架の時」は、私たちを慰め、癒しと命を確かに約束した時でもある(3:16参照)。誰の人生にも「十字架の時」がある。誰の人生にも痛みと悲しみと苦しみに満ちた時がある。多くの場合、それは人生の中で味わいたくない出来事である。しかしそこに「十字架の時」が隠されている。「十字架の時」とは向き合いたくない出来事として、私たちの前に現れる。事実、「十字架の時」の中で弟子たちはキリストを見捨てて逃げ去ってしまう。本当は向き合わなくてはならない人生の大事にあって、そのことから目を背けるなら「十字架の時」は味わいたくない出来事として人生の中に埋もれてしまう。私たちは人生における「十字架の時」を見ないように生きることを選んでしまう。

 

 しかしキリストの十字架が、自分自身の「十字架の時」、痛みと悲しみと苦しみに満ちた時と深く重なる時がある。キリストを裏切った弟子のペトロはそのことを経験した一人である。キリストの否定(マタイ26:69等)と呼びかけ(ヨハネ21:15以下)の出来事を通して、ペトロはどんなに苦しく、不安と悩みが尽きなくても、キリストを否定した過去を消し去ることができなくても、人生を生きることでしか「十字架の時」には出会えないことを知った。人は人生を生きることでしか「十字架の時」には出会えない。

 

 漫才コンビ「マッハスピード豪速球」の坂巻裕哉さんは、芸人という顔だけではなく介護従事者という顔を持つ。介護の現場で感じたことを次のように語る。「認知症はつらいと言われるけど、はたして本人の気持ちはどうなのか。亡くなったはずの家族が生きていると思えたり、若い頃の自分に戻ったように感じられたりと、ご本人にとってはプラスの現象でもあるのかな、と思うことがある。それぞれの人生の縮図を見せていただいている」。

 

 人は人生を生きることで誰もが「人生の縮図」を持つ。私たちもいつかは「人生の縮図」を愛する人たちに残す日が来る。その「人生の縮図」の中に、もし何も光るものがなかったとしたらその人生はなんと寂しいものだろうか。キリストは私たちのために祈り、喜びだけではなく、不安や悩み、悲しみも多く存在するこの世で、私たちの人生に寄り添い「自分の人生を全うした」(17:4参照)と言うのである。そして最後に「十字架の時」を迎える。キリストの十字架が私たちの人生の中で確かに光るものであってほしい。