精霊の賜物

芹野 創牧師

 

彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(使徒言行録2章11節)

 

 本日はペンテコステ礼拝である。使徒言行録は人々が自分達の国の言葉で「神の偉大な業」が語られていることを聞いて驚いたことを記す(使徒2:6以下参照)。その驚きとは、言葉の違いを超えてそれぞれが皆同じように「神の偉大な業」を耳にしたということではないだろうか。ではその「神の偉大な業」とは何だろうか。

 

 本日の聖書日課に示されている旧約聖書ヨシュア記は、エジプトからイスラエルの民を導き出したモーセの後継者ヨシュアの物語である。その冒頭に語られる力づよい励ましのメッセージは、モーセという偉大な指導者の後を引き継がなくてはならないヨシュアの不安に対して語られている。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1:5-6)。私たちは自分の言葉で「神が共にいる」ということを自分自身にしっかりと語り直すことがいつでも必要なのである。精神科医R・D・レインが語るように「アイデンティティとは、自分が自分に語って聞かせるストーリーのこと」である。人は誰しもが「わたしはこういう人間だ」という、自分で納得できる人生の物語を自分で組み立ていくのだ。

 

 6月23日は、1945年に沖縄戦が組織的戦闘としては終結した「慰霊の日」である。沖縄県の学校現場では平和学習が続いているという。しかし一方で課題も指摘されている。その一つが「基地問題や国際紛争などの問題を考える、現在の『平和学習』と結びついていない」という点だという。この指摘から教えられることは、今の課題として歴史を学び、自分の問題として、自分の言葉で語り直すことの大切さである。

 

 外からの知識をいくら詰め込んでも、そう簡単に人の意識は変わらない。人の意識を大きく変えるものは知識の多さではなく、その人の人生に直接関わる課題である。人生に直接関わる課題に向き合うことができるのは、教えられた知識や聞いた言葉、読んだ言葉などを土壌とした「自分の言葉」であり「自分の言葉で祈る祈り」である。

 

 神が共にいるが故に、強く雄々しく生きようとする「神の偉大な業」を人生の物語として語り直す者でありたい。人生の労苦や不安の中で、共に苦しんで十字架を背負ってくださる神がいることを自分の言葉で語り直すことができるように、そっと私たちの心を押してくれる「何か」が私たちには必要である。その「何か」こそ「聖霊の賜物」である。