声をさがして

芹野 創 牧師

 

ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか(使徒言行録13章10節)

 

 預言者アモスに託された神の言葉はイスラエルの民には耳には痛い言葉であり、宗教的、社会的な堕落の故にイスラエルの国が滅亡するという絶望的な姿を示す言葉だった(アモス7:11)。祭司アマツヤはアモスが王に背く者であるという理由をつけ、彼を排斥することを進言する(アモス7:10)。こうした言葉は、不都合な事柄を隠してでも国家としての体裁を保ちたいという願いから出た言葉であったに違いない。しかし人は聞きたい言葉を聞いて満足するのではなく、自分を反芻するような厳しい言葉を聞かねばならないことがある。

 

 使徒言行録では聖霊と人々の祈りによって伝道へと送り出されたバルナバとサウロの物語が語られる。彼らは途中、魔術師エルマという人物に出会う。魔術師が宣教活動を妨げようとする時、彼らは「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」(使徒13:10)と厳しく問い正す。神の言葉は慰めや励ましばかりではない。「主のまっすぐな道」という言葉から思い出されるのは、福音書の冒頭に出てくる洗礼者ヨハネの物語である(マルコ1:2-4参照)。「主のまっすぐな道」は時代を見つめ、この社会に対する鋭い指摘と厳しい言葉で人々の心を揺り動かす声によって始まっていく。

 

 岩倉文也さんの詩集『傾いた夜空の下で』を書評する詩人の河津聖恵さんは「明示はされないが、1998年福島生まれの作者が体験した3.11の記憶が、関わっている筈だ。容易な希望や絶望を拒み、言葉によるひとすじの抵抗を選んだ詩人の旅を支持したい」と語る。「はるのあさ/よごれた雪をつかみとる僕らはいつもいつも祈りだ」。白い雪が放射能汚染の中で「もはや決して美しいものではない」ことを知る作者の祈りは、「容易な希望や絶望を拒み、言葉によるひとすじの抵抗」であり、人には聞きたい言葉を聞いて満足するのではなく、自分を反芻するような厳しい言葉を聞かねばならないことを私たちに示している。

 

 

 「主のまっすぐな道」を求める声が、時代の中で大きな声に埋もれてしまう現実がある。この世には自ら苦労して探さねば、中々聞こえない声がある。「主のまっすぐな道」を求める声を探す者は「狭き門」を行く者と同じである(マタイ7:13-14)。その声の聞くためにキリストは人が通ることを望まない「狭い門」を通られる。それが十字架であった。大きな声の下敷きになる小さな声を聞くことができるのは、「主のまっすぐな道」を求める声を苦労して探す人である。「主のまっすぐな道」を求める声を探し、その声に連なり歩みたい。