神の言葉の力

芹野 創 牧師

 

わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか(エレミヤ書23章29節)

 

 「夢」は神の意志を人に伝えるものだと考えられていた(民数記12:6-7等)。神の意志を巡る最も大きな課題は客観的な証拠がない中で、人が「神の言葉」を「神の言葉」として語ることや「神の言葉」を「神の言葉」として聞くことの難しさである。「神の言葉」は時に「神の言葉」という形式をとった「人間の言葉」になってしまうからである(エレミヤ23:16-17等参照)。人は「希望」を語る言葉に慰めや励ましを受ける。「希望を語ることができない社会」は生きづらい。しかし向き合うべき課題に蓋をし、「希望しか語ろうとしない社会」はもっと生きづらいのである。

 

 本日の聖書日課では「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」(エレミヤ23:29)と語られている。「希望しか語ろうとしない社会」の中、真実なる神の言葉は「火のようであり、岩を打ち砕く槌のようなもの」である。

 

 使徒パウロは信仰生活を「よく走ること」に喩えている(ガラテヤ5:7)。それは「走り続けること」である。しかし信仰生活は「走り続けること」が意外と難しい。それは継続を断念させるような邪魔が様々な形で訪れるからである。多くの場合、それは私たちの外からやってくる様々な誘惑である。問題はそれがどれだけ僅かなものでも、大きく膨れ上がる程の力を持っていることである(ガラテヤ5:9)。人は「僅かなパン種」(ガラテヤ5:9)という些細な誘惑の故に、人生の悩みに振り回されることがある。

 

 柳田國男の「遠野物語」には「神隠し」にあった「山人」が出てくる。この「山人」の存在や「遠野物語」という伝承の意義について、辻中良雄さんはこう語る。「山人は闇に生きる存在であった。人は山を削り、かろうじて残された闇には光を当てて、自分たちの住む場所を明るく照らしてきた。闇を失った世界は明るいが、奥行きに欠け平板である。そうした闇の力をとどめておく物語が、いまの時代には決定的に不足しているのかもしれない」。

 

 闇のない世界を自分自身に投影しすぎてはならない。「僅かなパン種」(ガラテヤ5:9)という些細な誘惑を通して、私たちは心の中にある闇を知ることがある。闇は、神よりも自分が大きくなり自分しか見えない自己中心の世界を作り出すのである。しかしこの闇の力を神の言葉が火のように、岩を砕く槌のように打ち砕くのである。その神の言葉はキリストの十字架の出来事を通して、改めて私たちに示されていることを心に留めたい。