信仰的な土台

芹野 創 牧師

 

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソの信徒への手紙5章25節)

 

 エフェソの信徒への手紙5章21節以下では「キリストが教会を愛し、教会はその愛の故に喜びで満たされている」という信仰的な土台が、夫婦や家族という人間関係を伴う実生活の中でこそ体現されるべきだと勧められている。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(5:25)。しかしここには時代的な制約や価値観が反映されている。夫と妻の主従関係を連想させるような受け止め難い表現(5:22,23等)もある。いずれにしても「夫婦や家族という人間関係を伴う実生活」の在り方が多様化していることを前提にして私たちは御言葉のメッセージを汲み取らねばならない。

 

 一人の少年と大きなリンゴの木の交流を描いたシェル・シルバスタインの「大きな木」という絵本は、変化する関係性の中で「変わらない幸せ」を抱き続ける物語である。大切なことは夫婦や家族の形やその定義ではなく、時代と共に変化する関係性の中でも「いつも変わらないもの」を忘れずに生きることである。それは「キリストが教会を愛し、教会はその愛の故に喜びで満たされる」という信仰的な土台、「キリストの愛がいつも共にある」という信仰的な土台である。

 

 しかし私たちは「キリストといつも共に生きる」ということを、あまり自分の都合で語りすぎてはならない。なぜなら私たちは、時代や状況に応じて様々に変化する関係性を人生の宿命として背負っており、様々に変化する関係性の中で、「いつも変わらないもの」を持ち続けることは決して簡単なことではないからである。悩みや課題が多く不安が大きい時にも「いつも変わらないもの」を抱き続けることは難しい。自らの信仰は元より、その時の状況や人間関係が物事を左右する。身近な人や家族の理解や協力、信仰の友の祈りと支え、週ごとの礼拝を通して私たちは「いつも変わらないもの」を抱いて生きるのである。

 

 イザヤ書54章には不妊の女性の苦悩と同時に、その苦しみを切り捨てられない神の言葉がある(イザヤ54:6-8)。この言葉が53章に続く言葉であることを覚えたい。イザヤ書53章は「苦難の僕」と言われキリストの十字架の苦難を預言する。キリストの十字架の苦難の故に、私たちは「キリストが教会を愛し、教会はその愛の故に喜びで満たされる」という信仰的な土台、「キリストといつも共に生きる」という信仰的な土台に立ち帰るのだ。