神の定め

芹野 創 牧師

こうして、主の言葉はその地方全体に広まった(使徒言行録13章49節)

 

 イザヤ書5章1節以下で語られる「ぶどう畑」はユダの人々を指す(イザヤ5:7)。神は正義と公平の実を望まれたが、流血と泣き叫びという悲劇の実を結ぶことになった歴史が記される。人間の生み出す現実を前に、神は「わたしはこれを見捨てる」(イザヤ5:6)と語り、ユダの国の罪を咎める。それは今日の社会の姿にも似ている。長期化する戦争という形で流血と泣き叫びに満ちた世界を誰が望むというのだろうか。この世界の先にあるのは「わたしはこれを見捨てる」という絶望の世界であっても不思議ではない。

 

 新約聖書はこの絶望の世界に光をもたらす出来事を語る。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」(使徒13:46)という言葉は、イザヤ書で描かれているようなユダの人々の姿を思いこさせる。しかし新約聖書を通して知らされていることは「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(使徒13:49)という出来事である。ここに「神の定め」があることを私たちは信じたい。

 

 東京大学名誉教授の汐見稔幸さんは今の教育について「自分自身で自由に自分をつくっていく教育になっていない」と語る。「試行錯誤して、あれこれ試しつつ自分で学んでいく。それは教師や学校があらかじめ決めたレールをいかに失敗しないで歩くかという練習をしていては身につかない」と言う。人の歩みは決められたゴールに向かっていくものではない。旧約聖書の出エジプト記に記されるモーセの物語が思い出される。神が出エジプトの使命をモーセに与える場面は印象深い。彼は「いつまでも燃え尽きない柴」を目にするが、聖書はその場面を「道をそれて」と言う言葉を添えて物語る(出3:1-4)。

 

 人生を脱線してしまったと思える悩みと不安の中で、人間の思い、行動を超えて神が働く時がある。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(ロマ11:25-26)。人間の「かたくなさ」や「ねたみ」を神は喜ばない。しかし人間の「かたくなさ」や「ねたみ」を神は無視されない。私たちの意志がどれだけ道をそれていっても、神は「道をそれていく様子」をご覧になりつつ、新たな道を備えられる。その新たな道の途上にキリストとの出会いがある。十字架と復活に出会い、福音に出会い、「神の定め」を深く味わう者でありたい。