神の愛を求めて

芹野 創 牧師

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい(コリント一 12章31節)

 

 預言者ホセアはイザヤと同じ時代に北イスラエル王国で活躍した預言者である。ホセア書11章では神の愛に背を向け、神から遠ざかろうとするイスラエルの民の姿が描かれている。しかし神はどんなにイスラエルの民が反逆しても「お前を見捨てることができようか。憐れみに胸を焼かれる」(11:8)と心の痛みを語る。「人間の身勝手な振る舞い」と「神の愛」というテーマは、決して今日に生きる私たちと無関係なテーマではない。

 

 さてコリントの信徒への手紙一12章27節以下では、「人間の身勝手な振る舞い」ではなく「違いを超えた一体」こそ教会に与えられた使命であることが語られている。しかし現実には「違いを超えて一つになること」を実現するのは難しい。「弱く見える部分」、「格好悪く思える部分」を集団や組織の中から排除する姿がある。「体裁を整えるためには都合の悪いことを切り捨てても良い大義名分を作らねばならない」。そんな「人間の身勝手な振る舞い」は今の時代にも存在しておりここに人間の本性がある。だからこそ私たちは聖書を通して「愛」を知らねばならない。

 

 インターネットの俗語で「無敵の人」という言葉があるという。社会的に失うものが何もないため、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味する言葉だという。事業家の西村博之さんは「無敵の人」を「社会に絶望して、自殺ではなく他殺を選ぶ」者たちだという。そして、「社会がキツく当たるなら、自分も社会にやり返すという『弱者』もいる」と語る。人は一人では生きていけない。人は本来「無敵の人」となってはならないが、現実には「愛」という言葉で簡単に解決できない課題もある。

 

 人は「愛」を抱く存在だが、私たちは人間の抱く「愛」が完全なものではなく、どれも部分的なものであるということを知らねばならない(13:12参照)。大切なことは「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(コリント一12:31)とあるように、「愛」は「愛は神からいただく賜物」であるということである。人間の抱く「愛」が完全なものではないことを痛感する時、私たちは神から与えられる「神の愛」を求めなくてはならない。

 

 私たちは神から「愛」という賜物をいただいて生きる。キリストの十字架と復活こそ、神から生まれた最大の「愛」である(ヨハネ3:16)。キリストを信じることは、人間の「愛」が完全ではなく、部分的なものであることを痛感しつつ「神の愛」を求めることである。