神が与えて下さる

芹野 創 牧師

 

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります(コリント二9章8節)

 

 申命記は南ユダ王国のヨシヤ王の時代に編纂された書物であると言われている。「7年目ごとの負債免除」という制度は出エジプト記23章にその起源がある。しかしヨシヤ王の時代に制度化される中で、極めて現実的な課題も生まれた。それは貧しい者への貸与が「個人の自主性」に任されていたため、貸さない者が出てくる可能性があるということである。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」(申15:11)という一文は、個人の主体性と行政処置の限界を認めざるを得ない現実的な言葉である。それは「信仰と主体性」が問われる問題でもある。

 

 コリントの信徒への手紙二の9章は「エルサレム教会への献金活動」(コリント一16章)を背景にしている。アカイア州の人たちはコリントの教会の献金活動の姿に、信仰的な感動を覚えていた。本日の箇所は、その信仰的な感動を失望させず、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者」(9:6)にならないで欲しいとの願いである。ここで思い返したいことは「信仰と主体性」であり、喜んで、自由な心で献げるということである。

 

 今、私たちの社会では「献金」という言葉に敏感である。連日のように報道されるある宗教団体への献金問題は「喜んで、自由な心で献げる」ということへのある種の怖さを露呈した。信仰は個人自由で、献金も個人の自由だからと言って、なんでも「主体性」という言葉で片付けてしまって良いのだろうか。「主体性」とは決して「自分勝手」ではない。

 

 批評家の若松英輔さんはコロナ禍の生活を経験する中で、今の時代には「思念」の力が必要だと語る。それは『源氏物語』をはじめ、中世の時代からある古い言葉で、念願、祈念という言葉があるように、心の表層ではなく、心の底で「おもう」ことを指すからだ。

 

 思考や思索とは少し違って、「思念」とは他者という存在がなければ生まれない言葉ではないだろうか。思念することを忘れ得ぬ人は、おそらく自分勝手に生きる道を選ばない。思念することを忘れ得ぬ人こそ真の主体性を持つ人ではないか。

 

 喜んで、自由に献げるというのは自分だけの心持ちではない。それは「私」と「他者」と「神」との問題である。私たちの「献げる」という行為には、「神が与えて下さる」という出来事が根底にある。十字架は「命が失われた」出来事ではなく、私たちに「命が与えられた」出来事である。神が時宜にかなって全てを与えて下さることを信じたい。