ただ一度の十字架

芹野 創 牧師

 

キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた(ヘブライ人への手紙9:28)

 

 ヘブライ人の奴隷解放という「出エジプト」を決定づけたのが、エジプトに住むすべての「初子の死」である(出12:29以下参照)。この悲劇的な出来事を回避する唯一の方法が「過越の犠牲」であった。それは家の入口に羊の血が塗るという行為である。家の入り口に塗られた羊の血は、神がエジプト人とヘブライ人とを区別するための目印となり、その家の初子は死を免れた。その後、羊の血による「過越の犠牲」は「救いの血」として儀式化された(出12:24以下参照)。しかし「救いの血」は儀式であるが故に「繰り返し何度でも」流される「救いの血」でもある。

 

 さて新約聖書の基本的なメッセージはキリストの十字架の血が新しい「救いの血」だということである。しかし新しい「救いの血」は儀式化されていた「救いの血」とは異なり、ただ一度しかない最初で最後の「救いの血」である。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブライ9:28)のである。「繰り返し何度も」流されるような儀式化された「救いの血」ではなく、「ただ一度の十字架」という「救いの血」は一体人に何をもたらすのだろうか。この時に考えたいことは、この世の中には「二度と戻らないこと」、「繰り返しのできないこと」、「ただ一度しかないこと」というような「不可逆性」と呼ばれる事柄があるということである。

 

 今、注目を浴びる医療技術の中で「再生医療」と呼ばれるものがある。「失われた自分の組織や臓器を細胞の力を使って治す」ということだそうだ。「再生医療」への期待の根源には「不可逆性」に抗いたい気持ちがあるのではないか。「再生医療」は不可逆性に対して技術の力で抗っていくことをある程度可能にするものだと言えるだろう。しかし「不可逆性の原理」を抜きにして、人は愛に通じる「愛おしさ」を学ぶことはできないのである。

 

 「不可逆性の原理」の中でこそ、心を打つような言葉が生まれることを覚えたい。星野富弘さんの詩の中に次のような詩がある。「毎日見ていた/空が変わった/涙を流し友が祈ってくれた/あの頃/恐る恐る開いた/マタイ福音書/あの時から/空が変わった/空が私を/見つめるようになった」。人生のある時点から「見える景色が変わる」というのである。大切なことは「以前見ていた景色には戻れない」ということである。キリストの十字架がただ一度きりの「救いの血」であることを改めて心に刻みたい。