神の闘いを信じて

芹野 創 牧師

 

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました(ココロサイの信徒への手紙1章21節)

 

 ヤコブの物語は父イサクを騙し、兄を欺いて長男の権利を奪い取った男の物語でもある。彼は兄エサウの復讐を恐れ生まれ故郷を離れたが「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(創世記31:3)という神の言葉を信じて故郷に戻る決意をする。兄エサウとヤコブは双子の兄弟であった。兄が先に生まれ続いてヤコブが生まれたが、ヤコブが「兄のかかと(アケブ)をつかんでいた」(創世記25:26)ことから、弟の名前は「足を引っ張る(アーカブ)」(創世記27:36)を由来とする「ヤコブ」となった。

 

 神との格闘の末にヤコブは「お前の名はもうヤコブではない」(創世記32:29)という言葉、すなわち「お前はもう足を引っ張る者ではない」という言葉を聞く。それは彼にとってどれほど大きな意味を持つ言葉だっただろうか。ヤコブのように父や兄を騙し、人の足を引っ張るような行為は確かに「罪」の一つの姿である。その意味で「罪」とは隣人を顧みない自己中心の表れである。

 

 私たちは自己中心的な考えが「言葉」となり、驚くべきスピードで社会の中に拡散していく時代に生きている。作家の山内マリコさんはツイッターが社会的、政治的に活用されるツールであることを踏まえつつ「意識的に制御しないとツイッターはネガティブなものを吐き出す場になってしまう」と語る。

 

 コロサイの信徒への手紙は、人間の罪を「神との敵対関係」として描いている(1:21)。大切なことは「罪」が人間だけの問題ではなく、人間と神との関係性の中で説明されていることである。「罪」は人間の問題でありながら、人間の努力だけで解決し得るものではない。しかし「人間の努力だけでは解決しない」ということと「何も努力をしない」ということは同じではない。神の言葉を信じて、兄の復讐を恐れながらも故郷に帰っていくヤコブのように、人は具体的な行動を起こさなければならない。しかしヤコブの行動の中心に神の言葉があったように、人には「神に委ねなければならない事柄」がある。それがキリストの十字架である。「今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(コロサイ1:22)。神は利己心、虚栄心、傲慢な心、人を欺く心と闘い十字架において勝利して下さった。この十字架を心に覚え、福音の希望から離れずに生きたい。