裁きと救い

芹野 創 牧師

 

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである(ヨハネ黙示録7:10)

 

 イザヤ書25章は神を讃える言葉から始まる。その理由は神が「弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦」(25:4)であるからだ。ここには神の正しい「裁き」への期待がある。この世の不条理に対して、いつの日にか神は正しい裁きをもたらされるという期待は、弱く虐げられていた人たちが願う「救い」という信仰でもあった。

 

 ヨハネ黙示録でも、この世の終わりにおける神の「裁き」と「救い」が語られる。黙示録6章では小羊が終末の封印を開き、終末の「裁き」をもたらす存在であることが描かれるが、7章には「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(7:10)という言葉がある。一見矛盾する言葉の中に福音のメッセージがある。それは、「裁きをもたらす方」と「救いをもたらす方」が同じだということである。黙示録に描かれる「小羊」とは再臨のキリストを暗示しており、キリストが「裁き」と「救い」をもたらす方であるというメッセージがある。キリストの十字架が神の「裁き」であると同時に、人々の罪の赦しと「救い」であるという福音のメッセージが、「普遍的なメッセージ」であることをヨハネ黙示録は改めて示している。

 

 アメリカの作家マーク・トゥエインの作品の中に『ハックルベリー・フィンの冒険』という作品がある。物語の中で主人公のハックが、仲のいい黒人奴隷のジムを助けるために、奴隷逃亡の幇助という罪を犯してジムを助け出すことを決意する場面がある。私たちがこの物語を「奴隷制度を是とする社会への反発」として読むとしたら、それは私たちが、「裁き」には裁かれる者に悲しみや絶望、怒りや反発をもたらす力があるということを今日の世界情勢の中から感じ取っているからかもしれない。この想像力はとても大切な力である。

 

 「裁き」は裁かれる者に悲しみや絶望、時に怒りや反発をもたらす。それは同時に裁かれた者が感謝や喜び、希望という「救い」を感じることはないことを意味するのである。この時、私たちにとって神の正しい「裁き」と「救い」を語る聖書の言葉が大きな壁である。つまり私たちは「裁き」と「救い」が両立しないことを経験的に知っているのである。だからこそ私たちは「裁き」と「救い」が両立する「福音のメッセージ」に驚くのである。だからこそ私たちはキリストの十字架と復活を信じ、十字架と復活を頼りにして生きるのである。キリストと共に裁かれる者は、キリストの復活と共に新しく生きるのである。