神の約束の言葉

芹野 創 牧師

 

肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです(ローマの信徒への手紙9:8)

 

 本日の聖書日課に定められた礼拝のテーマは「神の民の選び」である。私たちが心に留めておきたいことは神の選び、神の救い、神の計画など「神が人間に関わろうとする出来事」は、多くの場合人間の混乱と不信仰の中から生まれるということである。聖書はアブラハムを「信仰の父」と語るが、そのアブラハムや妻サラも神の選び、「神の約束の言葉」を信じることができずに笑ったのである(創世記17:17,18:12)。またローマの信徒への手紙でも「神の約束の言葉」がアブラハムの家族やユダヤ人だけの物語ではなく、血のつながりを超えていくものであることが語られている(ローマ9:6-7参照)。

 

 さて神の選び、神の救いということを考えるときに「神の約束の言葉」を語ったのが誰かということが重要な事柄である。イサク誕生を告げる「神の約束の言葉」は最初「彼ら」の語った言葉であった(創世記18:9)。聖書は「神の約束の言葉」を「彼らの言葉」の言葉から「彼らの一人の言葉」に、そして「主の言葉」に変化させている(創世記18:10,13)。繰り返し語られ、時間をかけて人は「神の約束の言葉」に気付かされていくのである。

 

 公認心理士の大野萌子さんという方が、親子の関わり方について次のように語っている。「コミュニケーションの基本は、一方通行ではなく双方向が理想です。その点で意外に難しいのが親子の会話です。親と子の関係では、子どもの世話を続けているうちに、親が子どもを自分の所有物のように思ってしまったり、自分のできなかったことを子どもを通して実現しようとしたり、子どものやることに干渉したり...。親が子どもを支配する関係になりやすいのです」。「コミュニケーションの基本は双方向が理想」という事柄は、親子の関係ではない。それは神と人間の関係でも同じである。信仰もまた神と人間の双方向のコミュニケーションであり「神の約束の言葉」も決して一方通行の言葉ではない。

 

 「神の約束の言葉」には人間の悲しみ、悩み、混乱、不信仰が伴っている。しかし「神の約束の言葉」はキリストの苦難の十字架と復活を土台にしていることを忘れてはならない。人は苦難の中で「神の約束の言葉」を聞く。人は苦難の中で「神の約束の言葉」を「主の言葉」として受け止め直す覚悟を持つ。そして「神の約束の言葉」はユダヤ人だけのものではなく全ての人に開かれている言葉であることを覚えたい。