新しい救いの契約

芹野 創 牧師

 

モーセは言った。「わたしは何者でしょう。」(出エジプト記3:11)

 

 出エジプト記3章はモーセの召命の場面である。「神との出会い」はモーセの揺れ動くアイデンティティが浮き彫りにされる出来事でもあった。モーセの中にはいつも「わたしは何者でしょう」(出3:11)という問いが存在していた。モーセはイスラエルの家に生まれたが、エジプトの王子として育てられ奴隷のように支配される側ではなく支配する側に立っていた。それが数奇な人生の結果であったとしても、その事実が彼を苦しめたのである。

 

 社会学者の岸政彦さんは「個人の生活史を聞き取りながら、社会というものを考えてきた」という。数多くの人たちへの聞き取りを通して岸政彦さんは次のように語っている。「数時間ぶりに我に返ってまず感じるのは、いつも、強烈な孤独感である。数時間を他人と人生を共有したあとだから、よけいにそうなのかもしれないが、むしろ私は、この感覚は、人ひとりの生活史というなにかとてつもなく大きなもののなかを旅した後に感じるものだと思う」。岸政彦さんの言葉には「わたしは何者か」という不安が感じられる。「強烈な孤独感」を感じるのは岸政彦さんの聞き取りが、自分と似たような環境に置かれた人だけではなく、むしろ自分の「共感の範囲」を超えて、「驚き」や「戸惑い」を感じさせるほど多岐にわたる人たちへの聞き取りだからであろう。「わたしは何者か」という問いはその時代の偏見や「社会的弱者」、「マイノリティー」というレッテルの中で、身のおきどころが定まらない「存在の不安」を抱えた問いでもある。それは私たちにも通じる事柄だろう。

 

 人間はこの不安を自らの行動によって補おうとする。ユダヤ教の律法は、自らの行動によって不安に対峙しようとする人間に与えられた「行動規範」であった。しかしこの「行動規範」は「モーセの十戒」を見ても明らかなように「禁止」と「命令」で人間の生き方を示すものでしかない。ここに「行動規範」の限界がある。

 

 ヘブライ人への手紙では「古い契約」に代わり「新しい契約」が私たちに与えられたことが語られている。「新しい契約」の重要な点は「主を知れ」という「命令」ではなく「彼らはすべて、わたしを知るようになる」(ヘブライ8:11)と語られていることである。「わたしは何者か」という不安に対峙するのは「行動規範」ではなく神への信頼である。私たちは神が働いて下さった出来事、すなわちキリストの十字架と復活を覚えたい。十字架こそ「神が共にいる」ことを証し私たちの存在に意味を与える「新しい救いの契約」である。