人間の合意を超えて

芹野 創 牧師

 

ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。(サムエル記下5章3節)

 

 イスラエル王国成立の歴史はやや複雑な経過を辿っている。サムエル記下5章の冒頭は王位継承を巡る一つの契機となる場面である。しかし政治的、また組織的に一枚岩の国家が誕生したわけではない。一枚岩となるような「民全体の合意」を得た社会の形成は簡単ではない。ダビデ王誕生の出来事は、形式上「民全体の合意」という形を取りながら、現実には後の「王国分裂の要素」を水面化に持ち合わせたものであった。しかしこの出来事が「民全体の合意」という人間の計画だけに基づいたものではなく、「主の御前」での契約(サムエル下5:3)であることを覚えたい。対立や不和といった人間の現実を無視するのではなく、そこに神は手を伸ばし「神の計画」を進められるのである。

 

 日本教育新聞で1957年公開の「十二人の怒れる男」という映画について紹介されていた。舞台は裁判所の一室で、陪審員として招集された12人の男たちの台詞のみで展開する。彼らに託されているのは、父親殺しの罪で裁かれる貧しい少年の命である。決議には全員の意見の一致、すなわち「民全体の合意」が必要だとされている。

 

 この映画は陪審員の「結論の正否」ではなくその結論に至るまでの過程を描く。全員が同じ考えを持つことは極めて稀である。同調圧力の中で、形式的な「合意」が形成されたり、安易な多数決が採用されて深い対話が行われない「不思議な民主主義」が生まれることもあるだろう。同調圧力や安易な多数決の中で、「民全体の合意」という形を取りながらキリストは十字架にかけられたことを私たちは忘れてはならない(マタイ27章等参照)。

 

 人の目から見れば十字架は「民全体の合意」のもとに起こった出来事である。しかし神の目から見れば十字架は「神の計画」の一部である。そしてさらに「神の計画」は続いていく。コリントの信徒への手紙では十字架の後にある「神の計画」が語られている。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」(コリント一15:20,27,28参照)。キリストの十字架も復活も「人間の合意」に左右されることのない「神の出来事」である。私たちは「人間の合意」が素晴らしい社会を形成すると信じている。しかしこの世には「人間の合意」を超えた「神の出来事」がある。それがキリストの十字架と復活である。