心の平安は祈り

芹野 創 牧師

 

その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める(エレミヤ書33章15節)

 

 今年もクリスマスを待ち望むアドベントの季節を迎えている。コロナ禍や戦争による破壊と混乱、宗教に対する不信感や生活の不安など社会は様々な「回復」を必要としている。

 

 エレミヤ書は目に見える「外面的な回復」(33:1-13)と目に見えない「内面的な回復」(33:13-26)があることを語っている。14節以降には「正義の若枝」と言われる者が生まれ、神はイスラエルの人々と結んだ契約を思い起こすことが語られる。困難な状況を味わう時に、人は生活環境の改善という外面的な回復だけではなく、目に見えない人間の内面的な回復を必要とする。神が私たちを慰め、癒し、憐れんでくださるという言葉が、人間の内面性を支える回復の言葉になる。この時、「正義の若枝」と言われる者がキリストを指す言葉であり、キリストが人間の内面的な回復をもたらすことを覚えたい。

 

 しかし人間の内面的な回復は、私たちの生き方の姿勢を問われることでもある。ヤコブの手紙では「富」について厳しく戒めている(ヤコブ5:2)。それは人間にとって「富」が「神」と肩を並べるほど大きな力を持っているからである(マタイ6:24)。しかしお金では解決しない苦しみの時にこそ「外面的な回復」だけではなく「内面的な回復」にこそ目をむけ、「心の平安」を保ちたいと思う。この時大切なことは私たちの心が何によって満たされているのかということである。

 

 「人の心は何によって満たされるべきか」をめぐって考えさせられる児童文学書の一つにミヒャエル・エンデの『モモ』という作品がある。その中に「子どもたちはなん時間もじっとすわったきり、ガタガタ、ギーギー、ブンブンとせわしなく動きまわるおもちゃのとりこになって、それでいてほんとうはたいくつして、ながめてばかりいます。けれども頭のほうはからっぽで、ちっとも働いていないのです」という場面がある。

 

 神は空っぽの人間を望んではいない。私たちは他者を愛し思いやる心を持ちたい。それは他者への想像力と共感を必要とする。その時、私たちの悲しみ痛んだ経験が他者への共感力を少しでも補うことだろう。その経験が他者との出会いの中で私たちの「心の平安」となることがある。そして「心の平安」は他者を覚える祈りの中から生まれる。聖書はキリストの誕生を「インマヌエル」と預言する。それは「神は我々と共におられる」という意味である。「いつも共なる神」を覚え、「心の平安は祈り」から始まることを覚えたい。