霊的な神の祝福

芹野 創 牧師

 

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ書55章3節)

 

 イザヤ書55章は苦難の中にいる人々に対する神の招きの言葉である。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ55:3)。人間の命は「神の祝福」のうちに始まる。「魂に命を宿す」ことは「霊的な神の祝福」でもある。

 

 「霊的な神の祝福」を考える上でヒントとしたいのが「ピア・サポート」という言葉である。「ピア」とは仲間や同僚という意味で、サポートは支援という意味である。「ピア・サポート」の背景には「人は誰もが成長する力をもっている」という哲学があるという。つまり「ピア・サポート」とは本人の自立を根底にしつつ仲間による支援をさす言葉である。浜松市教育総合支援センターの心理専門相談員である山口権治さんは教育現場での生徒指導の課題に触れながら、「核家族化、少子化、地域の人間関係の希薄化、SNSの急速な普及などにより、子どもたちは人とつながりにくい環境に置かれている。そのため規範意識の低い子どもが増え、学級は集団ではなく単なる集合体になりつつある」と語っている。

 

 人は共に生きる仲間が必要である。その仲間とは「単なる集合体」ではない。希薄化する社会の中で人が安心して生きる場を作るために、私たちには信頼関係を築ける友という「ピア・サポート」が必要なのである。だからこそ神が人の姿をとり、人間として生まれたクリスマスという出来事に大きな意味がある(フィリピ2:6等参照)。私たちにとって最も近しい「ピア=友」とは人の姿として来られた神なるキリストである。「霊的な神の祝福」はこのキリストが私の友であることを信じ受け入れることから始まる。しかしそれは自然には始まらない。キリストを私の友として受け入れる中で与えられる「霊的な神の祝福」は、聖書の御言葉を通して養われるのである。

 

 福音宣教の始まりについて、ルカ福音書ではキリストが「霊」に導かれて故郷のガリラヤに戻り、会堂で聖書の言葉を朗読されたことを記している(ルカ4:16)。それは「いつものとおり」の出来事であった。この「いつものとおり」という習慣を私たちも大切にしたい。その習慣とは御言葉を読むこと、御言葉を聞くこと、折が良くても悪くても御言葉を味わう習慣である。「いつものとおり」御言葉に触れる習慣の中で、キリストの十字架が私の背負うべき十字架であったことを知る。「いつものとおり」御言葉に触れる習慣の中で、キリストが私の友であることを信じ「霊的な神の祝福」をいただきたい。