強いられた沈黙

芹野 創 牧師

 

お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる(ゼファニヤ書3章17節)

 

 ゼファニヤ書3章は人間の行いに対する神の裁きが語られる(3:1-8)。しかしその裁きの中で「残された者」の存在が明らかにされる(3:12)。しかし「残りの者」の運命は「苦しめられ、卑しめられ」(3:12,18)ていくものであった。「残りの者」の証として「神がその人の中に生きている」ことが告げられる(3:17)。それは深い慰めと励ましを受ける言葉だが、人はこの言葉を味わうために「苦しめられ、卑しめられ」ていくような運命を背負い、「残りの者」として生きる苦しみを経験しなければならない。

 

 アランの『幸福論』という本がある。その中でアランは「不幸について」も述べている。アランは自分の不幸を大げさに考え過ぎることが自分を不幸にしていくという。なぜならば喜びも悲しみも自分が知っている理由では、うまく説明がつかないものだからという。人の背負う苦しみには様々な形がある。人の背負う苦しみの最も深いところにあるものは、自分自身の中で説明がつかないことであるように思う。

 

 人は説明のつかないことで苦しむ。エリサベトがそうであったかもしれない。「不妊の女」であることが「恥」とされた時代である。それは「苦しめられ、卑しめられ」ていくような出来事であったに違いない。そして夫であるザカリアも説明ができない苦しみを背負うことになった(ルカ1:22)。「不妊の妻」と「口がきけなくなった夫」。それは人々の偏見や思い込みの中で誤解され、沈黙を強いられる経験であった。しかしこの「強いられた沈黙」を神はあえて人に与えるのである。それは「強いられた沈黙」には裁き以上の意味が込められているからである。「強いられた沈黙」がなければ分からないことがあるからである。

 

 アランの『幸福論』には「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分にまかせて生きる人はみんな、悲しみにとらわれている」という言葉がある。「強いられた沈黙」を経験する人は気分の落ち込みを経験する。しかし「強いられた沈黙」が意志を持って生きることの大切さを教えてくれる。信仰とは意志である。信仰とは人生の労苦や悩み、不安に向き合っていく私の意志であり、同時に私の人生を顧みてくださる神の意志である。私たちは「強いられた沈黙」の中で、この神の意志に出会うのである。クリスマスは神の意志を改めて喜び祝う時である(ヨハネ3:16-17)。神はあえて「強いられた沈黙」を人に与える。そこに裁き以上の意味が込められていることを覚えたい。