主を知る知識

芹野 創 牧師

 

大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う(イザヤ書11章9節〜10節)

 

 イザヤ書11章は神の支配する新しい時代を告げる言葉が語られる。そこでは弱く虐げられた者のための「正しい裁き」(11:3-5)や、弱肉強食から平和共存の時代(11:6-9)の到来が告げられている。そのような時代の大きな転換を迎えるとき、イザヤ書はこの世界が「主を知る知識で満たされる」と語る(イザヤ11:9-10)。大きな戦争によって、今私たちの住む世界は痛みと悲しみ、不安と課題を抱えている。私たちは改めて「主を知る知識」が大地に満たされることの意味を受け止めたい。「主を信じる信仰」ではなく「主を知る知識」が大地に満たされると聖書は語っている。この世には信仰に先立つものがある。そのことを忘れる時、私たちの信仰は盲目に陥ってしまう。

 

 ルカ福音書に描かれる受胎告知の場面に、信仰に先立つ一つの出来事が語られている。それは天使から一方的に告げられ言葉である。天使ガブリエルの語る「主があなたと共におられる」(ルカ1:28)という言葉は、マリアがそのことを信じるか信じないかに関わらず語られた言葉である。クリスマスは「主が共にいること」を私たちが信じることから始まるのではない。私たちが「主が共にいること」を信じることができなくてもクリスマスはやって来るのである。不安や困難な事柄があったとしても、病や戦争があったとしても、どんな状況にも先立って「主が共にいる」という出来事が告げられるのである。しかしだからこそ「主が共にいる」という知識の前で人は苦しむ。人は「主が共にいる」という「主を知る知識」を持つがゆえに、この世の現実や課題に深く苦しむ。

 

 しかし本当の信仰はこの世の課題や人生の悩みや苦しみに対して向き合うところからしか生まれない。「主が共にいる」という「主を知る知識」の故に、現実の困難さや葛藤を経験しない信仰は、私の不安や苦しみ、私の背負う課題に向き合い、私の人生を深く支えるものにはならない。現実の困難さや葛藤の経験こそが信仰を養う。なぜなら現実の困難さや葛藤の経験が私たちにとってキリストの十字架であり復活の経験となるからである。

 

 フットプリンツという詩が思い出される。「あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」。「主が共にいる」という「主を知る知識」の故に、人は現実の困難さや葛藤を味わい、信仰に出会い、信仰に目覚める。「主を知る知識」が大地に満たされることを祈りたい。