さあ、思い巡らせよう

芹野 創 牧師

 

マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカによる福音書2章19節)

 

 ローマ皇帝による住民登録の勅令(ルカ2:1)はローマ帝国の実効支配を象徴する出来事である。それは「力による支配」の表れであり今日の世界に重なって見える。聖書は多くの人々が「全世界を力で支配しようとする王」に注目し、またその実効支配である住民登録の命令に翻弄されるときに、「神の出来事」が人知れず始まっていくことを告げている。この時、私たちはキリストの誕生の証人として住民登録の対象外とされたであろう「羊飼い」が最初に選ばれたことを心に留めたい(ルカ2:8以下)。

 

 ファシズム時代に生きた思想家ヴァルター・ベンヤミンに影響を与えた19世紀フランスの詩人、シャルル・ボードレールの作品に「屑拾いの酒」という詩がある。「屑拾いがやって来るのが見られる/首をふり/よろめき/壁にぶつかるその姿は/まるで詩人のよう」。ベンヤミンはこの詩について興味深いコメントを残している。「屑屋のぎくしゃくした歩き方は、必ずしもアルコールの影響によるわけではない。なぜなら、彼はいつも立ち止まって屑を拾い、それを背負い籠に投げ込まなくてはならないからだ」。この解釈をめぐり、京都大学准教授の藤原辰史さんは「屑拾いは、目線を下に向け、屑を探す。腕のいい屑拾いは、パリの人びとの卑しさと善良さを、そして、季節ごとの物と人の流れと性質をどんなパリ市民よりも知っている。そんな、地べたに捨てられたものの知からぎくしゃくした身振りで歴史を組み立て直したい」と語る。

 

 羊飼いたちが天使の言葉を聞いてキリストを探し当てた出来事を思い巡らすマリアの姿(ルカ2:19)は、ボードレールが「屑拾い」の姿を描いたことに似ている。私たちもクリスマスの出来事をこの時代の中で思い巡らしたい。「力による支配」が台頭する中でもキリストの誕生を喜び、神を讃美する人が一人でもいれば、神はキリストの福音を備えられる。

 

 ミカ書5章1節の言葉をマタイ福音書は「決していちばん小さいものではない」(マタイ2:6)と引用し直している。そこに神が備えられたキリストの福音がある。その福音とは「力による支配」が台頭する中でもキリストの誕生を喜び、神を讃美する者は「決していちばん小さいもの」にはならないという「神の揺るぎない宣言」である。地べたを見つめ人間が切り捨てた「屑」を拾い集め「決していちばん小さいものではない」と語り、大事に背中の籠に入れて背負っていく神の姿がここにある。