主にある希望の祈り

芹野 創 牧師

 

あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。(ルカによる福音書2章35節)

 

 預言者サムエルの誕生の物語は、人が生まれる背後に多くの祈りがあることを語っている。サムエル誕生の背後には母ハンナの涙の祈りがあった(サムエル上1:9-28)。またルカ福音書にはキリストの誕生を待ち望んでいたシメオンとアンナという二人の人が描かれているが(ルカ2:25-38)、彼らもまた祈りの人であった。祈りとは必ずしも言葉だけによるものではない。祈りは生活の一部に溶け込んだ私たちの具体的な行動でもある(サムエル上1:7、ルカ2:27、ルカ2:37参照)。この時、私たちは人の行動が何かを生み出すというような「因果応報」の法則を簡単に当てはめることではなく、人の切実な祈りが行動になり、その行動が神の目に留まったという出来事に感動したい。

 

 東洋経済新報社が2016年に出版した『ライフシフト100年時代の人生戦略』という本がある。この本の著者は「長寿がもたらす恩恵は、基本的にはもっと目に見えないものだ」と語り「無形資産」を三つのカテゴリーに分類している。一つ目は「生産性資産」でスキルや知識などであり、二つ目が「活力資産」で健康や家族関係などの良好な関係であり、三つ目が「変身資産」で多様性に富んだ人的ネットワークや、新しい経験に対する開かれた姿勢だという。この三つの資産に加えて、私たちキリスト者は四つ目の無形資産に「信仰資産」というものを加えることができるかも知れない。「信仰資産」とは祈りであり、切実な祈りがもたらす行動であり、実に三つの無形資産を下支えするような資産である。

 

 神は待ち望んだものを与えてくださる。しかしそれは私たちが願った形ではないかも知れない。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2:35)とシメオンは語る。「人の心にある思い」はルカ福音書の中では批判的な意味で用いられている(5:22、9:47、24:38参照)。「人の心にある思い」を神はよく知っているが「人の思い」と「神の思い」は異なっているのである。私たちはその前提を忘れてはならない。そうでなければキリストの名によって祈る意味がないからである。

 

 キリストの名によって祈ることは、「人の思い」と「神の思い」が異なる時に「人の思い」が打ち砕かれても、必ず新たな希望を与えられて立ち上がることを信じることである(ルカ2:34参照)。ここにキリストの十字架と復活があり、この十字架と復活を土台にした祈りこそ「主にある希望の祈り」であること覚えたい。