分かち合う信仰

芹野 創 牧師

 

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目で見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声が、天から聞こえた(ルカによる福音書3章12節)

 

 ヨルダン川を渡るという物語をモチーフにした黒人霊歌がいくつかある。彼らは過酷な労働にさらされている現実を「出エジプト」の物語に重ね合わせていたとも言われている。自分たちと同じように、エジプトの地で奴隷として生きてきたイスラエルの人々がヨルダン川を渡り約束の土地に向かう物語は、彼らの精神的、信仰的な支えであり、自由と解放の希望を支える物語であったと言えるだろう。それは境遇を同じくする黒人奴隷の人たちにとっておそらく「共通の信仰」だったに違いない。信仰は共有する中で深められていく。

 

 ヨルダン川を渡る物語が、イスラエルの十二部族の代表者の選出により奇跡の出来事を共有する出来事であったことを見落としてはならない(ヨシュア3:12)。「主の契約の箱」は神とイスラエルの間に結ばれた契約を象徴するものであり、その契約を簡潔にまとめた言葉が申命記7章6節以下の言葉である(申命記7:6-8参照)。「主の契約の箱」を担ぎヨルダン川を渡る奇跡物語は「神に愛され神が共にいる」という信仰が自己完結ではなく、多くの人と分かち合う出来事であることが示している。しかし「共有する」ということは意外と難しい。「共有する」という時にどうしても外せない事柄はその「過程」である。

 

 金沢大学教授の金間大介さんは、最近の若者が「映画を倍速で観る」という行動について興味深いことを指摘している。「効率を求めているためではなく、結論が出ていない状態が長く続くのが耐えられない」という指摘である。信仰も似ているところがある。「結論が出ていない状態が続く」時に、人を支えてくれるのはその過程を一緒に味わう者の存在である。私たちの信仰は、私の苦しみを十字架を背負い共有してくれるキリストの存在と、信仰を同じくする仲間が耳を傾け、時間や場所や思いを共有し祈りを合わせてくれる出来事に支えられているのである。

 

 もし「神に愛され神が共にいる」という信仰が自分だけのものだとしたら、私たちは様々な困難な状況に出会う度に疑心暗鬼に陥り信仰から離れてしまうかもしれない。しかしキリストの洗礼を思い返したい(ルカ3:15-22)。キリストはヨハネから洗礼を受ける人であり、罪のない神の子が「罪の赦しと悔い改めのバプテスマ」を受けるのは、私たちが「神に愛され神が共にいる」ということを明らかにするためである。私たちは「神に愛され神が共にいる」という信仰を分かち合う仲間がいることを喜びをもって心に刻み直したい。