素直な告白

芹野 創 牧師

 

主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです(ルカによる福音書5章8節)

 

 キリストの弟子ペトロの本名はシモンで漁師である。ルカ福音書で描かれるシモンの姿には淡々と漁師の仕事をこなすような印象がある(ルカ5:1-3)。その後の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)という言葉はシモンにとっては大した助言ではなかったようだ。

 

 人の助言が何かしらの課題を乗り越える活路となることもある。出エジプト記はイスラエル民の様々な問題を、朝から晩まで裁き、民を導き出した指導者としてそれぞれに指示を出すモーセの姿を描く。モーセのしゅうとはその状況を見て「このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれない」(出エジプト18:17-18)と助言し、信頼できる人たちを選び小さな事柄は彼らに任せることを提案した。

 

 エッセイストの岸本葉子さんがご自身の日常生活の変化を面白おかしく語っている。不規則な生活で朝が遅く、ゴミ出しに間に合わない経験から「このままではダメになる」と改心して起床時間を早くしたという。「このままでは本当にダメになる」という漠然とした危機感のようなものが感じられる時にこそ、人の言葉が初めて助言のように届くことがあるのかもしれない。

 

 シモンを変えたのは彼自身の言葉であった。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)。「このままでは本当にダメになる」という漠然とした危機感が始まりでもいい。人は自らを内省する言葉を宿すとき、誰かの言葉ではなく、自らの言葉によって新しい世界を開くことがある。シモンはキリストが今まで差し伸べて下さっていた手を軽んじ、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うような、自らの態度や生き方を素直に告白することで、新しい世界を開いていったのである。

 

 信仰とは私自身の勇気でもある。それはキリストがすでに私に目を止め「わたしが共にいる」と手を差し伸べていたのに、その出来事を受け止めきれず、信じきれず、軽んじてしまう生き方を自分の言葉で素直に告白する勇気である。そういう勇気を私たちは信仰と呼ぶべきである。「そのようなあなたの生き方を変えるために、わたしは十字架についた」とキリストは語ってくださるだろう。神への信頼と同時にキリストに対する不誠実さを嘆く、私たちの素直な告白が「キリストの十字架」を「神の恵み」に変えていくのである。