本当の貧しさ

芹野 創 牧師

 

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである(ルカによる福音書4章18節)

 

 「雲」はしばしば神が何か具体的な目に見える形を伴って現れる象徴として聖書の中に登場する。人の目には「雲」として見えているが、その存在を通して人々は「神が今そこにいる」というメッセージを受け取っていた(民9:15以下参照)。

 

 エジプトの国での奴隷生活から脱出したイスラエルの人々は荒れ野の生活の中で、多くの「貧しさ」や「生活の不満」を抱えていた(出エジプト16章、17章など参照)。しかしイスラエルの人々は「貧しさ」や「生活の不満」を抱えながらも、神に従って生きることの恵みを経験的に知ったのである。

 

 福音は「貧しさ」から始まる。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4:18)。キリストが朗読したイザヤ書の言葉から教えられることは「貧しさ」が福音と深く関わっているということである。そこには物理的な「貧困」という意味での貧しさも含まれるが、しかし続くイザヤ書の言葉で「捕らわれて人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし」と言われるように、聖書が語る「本当の貧しさ」とはキリストを知らないことによってもたらされる「貧しさ」、キリストなしに生きるという「貧しさ」である。

 

 2013年にNHK出版から出版された『天、共にありアフガニスタン三十年の闘い』は、2019年に凶弾に倒れた中村哲さんの著書である。中村哲さんは様々な「貧しさ」に向き合ってきた。その偉業を称える評価も多いが、私たちは中村哲さんが「キリスト者である」という土台を無視して語ることはできない。「キリストなしに生きる人生ではなかった」ということを無視して、その偉業ばかりを語ることはできない。

 

 キリストと共に生きるとき、「今、ここ」を忘れてはならない(ルカ4:21参照)。私たちは多くの場面において「あの時」という過去に生きてしまう。しかし「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われた言葉を体現したキリストの十字架が、今も私たちの内に生きて、今日私が背負わなければならない様々な事柄とならない限り、そこに福音の希望はない。キリストの十字架と復活の意味を噛み締め、自分の人生の様々な出来事と重ね合わせながら生きることを知らない「貧しさ」があるとき、そこにこそ福音の希望が芽生えることを覚えたい。