み言葉を聞く態度

芹野 創 牧師

 

慈しみとまことがあなたから離れないようにせよ」(箴言 3章3節)

 

 箴言は格言集と言われることもあるが、いわゆる処世術が書かれているのではない。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言 1:7)とあるように、神との関係を正しく保つことが箴言の中心的なメッセージである。神との関係は良くも悪くも変化するものである。本日の箇所では「慈しみとまことがあなたから離れないようにせよ」(箴言 3:3)と語られているが、それらを人生においてよく保つ者でありたい。

 

 「種を蒔く人のたとえ」(ルカ 8:4-8)では「慈しみとまこと」から離れてしまうことを連想させる、実を結ばない種の様子が描かれている。たとえ話の説明の中で種とは「神の言葉」であることが示されている(ルカ 8:11)。種は道端にも良い土地にも等しく蒔かれる。どの種も「御言葉を聞くが」(ルカ 8:12-14)と語られた後、良い土地に落ちた種だけ「立派な善い心で御言葉を聞き」(ルカ 8:15)と言うように「み言葉を聞く態度」が語られている。

 

 『氷川清和』には勝海舟の人間観が随所に見られ興味深い。「人には余裕というものが無くては、とても大事はできないヨ」、「全体自分が物事を呑み込まなければならないのに、かへつて物事の方から呑まれてしまうから仕方ない」という言葉は、「余裕」というものが「人生の余った時間ではない」ことを語っているかのようだ。「み言葉を聞く余裕がない」というのも「み言葉を聞く態度」である。しかし「余裕」は生み出されるものである。み言葉を聞くから「余裕」が生まれるのではないだろうか。

 

 「み言葉を聞く態度」とはこの世の様々な現実や困難な出来事に呑み込まれ、流され不安に駆られて生きていくことではなく、「慈しみとまことを心の板に書き記し」(箴言 3:3 参照)、迷い、戶惑い、心揺らされながらも「み言葉」に立ち返って行こうとする態度である。神の国の到来を告げる福音(マルコ 1:15)を心から受け止めるためには、この信仰的な「み言葉を聞く態度」がなければならないだろう。

 

 キリストは人間の様々な思惑や罪が作り出した闇の中を、十字架を背負って歩まれた。しかしその苦難の道のりの先に復活がある。聖書が福音として告げる「神の国」は、私たちが目指すべき世界の姿である。キリストの十字架と復活の出来事は、私たちの世界も同じように多くの苦しみや課題を抱えながらも、必ず十字架の苦難を通して復活の希望へと進みゆくことを示している。この福音の「み言葉を聞く態度」を失わずに過ごしたい。