御心を求めて

芹野 創 牧師

 

主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります(ルカによる福音書 5章13節)

 

 ヨブ記2章3節には「お前は理由もなく、わたしを唆して彼(ヨブ)を破滅させようとした」という神の言葉がある。それは「正当な理由のない苦しみ」というものが確かに存在することを示す言葉である。この世には「正当な理由のない苦しみ」が存在するのである。そしてこの「正当な理由のない苦しみ」の中で、人は祈ることを知るのである。

 

 重い皮膚病を患った人はキリストを見るとひれ伏し、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(ルカ5:12)と言った。ここに祈りが聞かれるただ一つの条件がある。祈りは「キリストの御心である」ときにこそ聞き入れられるのである。しかし「正当な理由のない苦しみ」が存在する中で、私たちは時に「神の御心」に落胆し失望するのである。私たちはいつの間にか「神の御心」に条件をつけてしまっていることになかなか気づかない。人間が求める「正当な理由」は、時に利己的で危ういものである。

 

 子どもは3歳頃までには、ジェンダー・人種・障害に基づいて他者に「前偏見」を示すようになると言われている。「前偏見」とは本当の偏見につながるかもしれない、幼い子どもの初期の考えや感情のことを指す。また大人にも興味深い特性がある。『時間的展望の生涯発達心理学』という本によれば、中年期までは将来展望は広がるものの老年初期には将来展望は狭まり無関心が増大するという。このような人間の特性からわかることは、人が人に向ける眼差しや関わり方は、年齢や経験、成長過程において左右されるということである。その特性は「正当な理由」を求める信仰的姿勢にも影響を与える。「キリストの御心」を求める思いを常に保つのは難しい。

 

 しかし私たちは福音を知っている。それは「キリストの御心」を求める私たちの思いがどれだけ揺らいでも、「キリストの御心」は揺るがないという約束である。「清くなれ」、「あなたの罪は赦された」(ルカ5:13,20)と語るキリストの言葉に「キリストの御心」がある。この言葉の背後に「正当な理由のない苦しみ」を贖ってくださるキリストの十字架がある。私たちはこの言葉が病を癒すことを第一の目的とした言葉ではないということを知らねばならない。それは病と苦しみを取り去る言葉ではなく、病と苦しみに伴う言葉である。この言葉を語るキリスト御自身が苦しんで十字架を背負って下さるからこそ、この言葉は病を癒す言葉になるのである。この順序こそ私たちが求めるべき「キリストの御心」である。