自分の十字架をさがして

芹野 創 牧師

 

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(ルカによる福音書9章23節)

 

 キリストは自分を捨て自分の十字架を背負って従うようにと言われた(ルカ9:23)。多くの場合、人は自分の罪や過ち、人生に課せられた苦悩を背負うことが「自分の十字架を背負うこと」だと考えるだろう。しかし創世記には弟アベルを殺してしまった兄カインが「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創世記4:13)と神に訴える言葉がある。私たちは人生の様々な局面で「わたしの罪は重すぎて負いきれません」という経験をするのではないだろうか。だからこそ、私たちにはキリストの十字架と復活という福音が必要なのである。

 

 「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし...昔から常に彼らを負い、彼らを担って下さった」(イザヤ63:9)という言葉はキリストの十字架を指し示す福音の言葉である。この言葉は、キリストの語る「自分の十字架」が、他者の苦しみと深い関わりの中にあるということを示している。「自分の十字架を背負う」ということは、その人自身の罪や過ち、その人の人生に課せられた苦悩だけを指しているのではなく、他者の苦悩と深い関わりの中にあるということを知らなければならない。 

 

 ジャーナリスト中村尚樹さんの著書に『最重度の障害児たちが語りはじめるとき』という本がある。その本の中で重度障害者の綾名さんという方が紹介されている。彼女は言葉を持たず、周囲のことを何も理解していないと両親にも思われていたがある日、パソコンに接続した装置を使い、持っていないと思われていた言葉を紡ぎ始めたのである。

 

 人の中に埋もれている言葉に心と耳を傾ける姿勢が問われているように感じる。しかしそういう謙虚な姿勢が問われている一方で、人の抱える苦しみや悲しみは簡単には言葉にならないことの方がずっと多いが故に、人の抱える思いが本当は何なのかということを完全には分かり得ないということも改めて教えられる。

 

 

 福音を広め伝えていくことは難しい。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」とあるように、キリストの福音が実を結ぶところには人々の苦難があるからであり、その苦難を全て理解し分かち合うことが私たちにはできないからである。しかし完全ではなくても人には、他者の苦悩を「自分の十字架」として受け止めてくれる信仰の友が必要である。たとえその分かち合いが完全ではなくても、他者の苦悩の中にある「自分の十字架」をさがし、祈りをもって背負っていく者でありたいと思う。