神の約束

芹野 創 牧師

 

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっと堪えていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた(ルカによる福音書9章31節〜32節)

 

 モーセの顔が光を放っていたという出来事(出エジプト34:29-30)は、モーセという存在が人々の中でより神に近い存在として理解されていったことを物語っている。それはモーセが人々に神の言葉を語り聞かせる役目を担ってきたからである。モーセが自分の顔を覆うという行為は、「人々と神との間にある隔たり」を連想させる。人は神の計画や恵みを知り尽くすことはできない。むしろ私たちは神の計画の奥深さの前で、ペトロのように「自分でも何を言っているのか分からない」(ルカ9:33)という戸惑いを抱え、私たちに示された道に対する不確かさの方に心を奪われてしまう。信仰とは私たちと神との間にある隔たりがキリストの十字架と復活を通して解消されていくことに期待して生きることだと言えるだろう。その信仰的な期待は今日も私たちの中にあるかだろうか。

 

 聖書はキリストの「山上の変容」での弟子たちの様子を「ひどく眠かった」と描く。それは神の出来事に思いを向け続けることのできない人間の姿である。しかし私たちの心が神の恵みから離れていても、神はいつも目を覚ましていることを覚えたい(詩篇121:4)。 

 

 公認心理士の菊本裕三さんは、ウイルスの感染予防とは別の理由でマスクを着用することを「だてマスク依存症」と呼んでいる。菊本さんによれば「だてマスク」は他者との関わりを減らす心理的な壁として役割を持つという。菊本さんは人間関係においての感性が豊かで繊細な心理を持つ人たちにとってマスク着用が一つの心理的安心材料となっていること語りつつ、「だてマスク」が許容される社会を提唱している。しかしそういう社会が他者への深い共感と理解の上に成り立っているのか、他者への無関心と社会の希薄化の結果なのか、その見極めは難しい。だからこそ人は、人間関係の難しさや悩み深さの中で自分を見つめ直し、神を求め信仰の道を求めることがある。

 

 しかしやみくもに神を求めても何も変わらないことの方が多い。人は神を真剣に求めているようで、「自分でも何を言っているのか分からない」という戸惑いを抱え、人生の不確かさの方に心を奪われてしまうからである。人がいかに神の恵みから離れやすいかを心に留めたい。だからこそ私たちはキリストの十字架と復活を人生の中で何度も味わうことへと招かれている。私たちは、人生の悲しみも苦しみも、喜びも希望も、等しく「神の約束」であるということを忘れてはならない。福音はいつも十字架と復活によって訪れるのだ。