エゴイズムを砕くもの

芹野 創 牧師

 

その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう(ルカによる福音書20章18節)

 

ぶどう園の主人からぶどう園の管理を任された農夫たち(ルカ20:9)は私たちの姿でもある。このたとえ話は「神が人間にこの世界と全ての財産を任せている」ということを示している。人間にはこの世界を維持管理する使命が与えられているのである。しかし人間はこの世界の維持管理の中で、愛と平和、共存ではなく自己中心的なエゴイズム(ルカ20:14-15参照)を育ててしまったのではないだろうか。それは神や隣人、この世界に対して自分が主人になろうとするエゴイズムである。私たちはエゴイズムを加速させながらお互いに対立を深め、悲劇の歴史を何度も繰り返してしまう存在である。しかし同時に悲劇の中から紡ぎ出された言葉を次の世代に語り継ぐ知恵を全く持っていないわけではない。悲劇の中から紡ぎ出された聖書の言葉の一つが哀歌である。

 哀歌の特徴は1章から4章までの各節がヘブライ語のアルファベット順に記されていることである。日本語でいうところの「いろは歌」である。国家滅亡の悲劇をアルファベット順にして、誰もが口ずさみ覚えやすいように作ることで、その歌が世代を超えて引き継がれていくと願ったのないだろうか。聖書はエルサレム陥落と国家滅亡の悲劇を神への不信仰と重ねて語っていくが、神への不信仰とは必ずしも「神を信じないこと」ではなく、この世界に対して自分が主人になろうとする人間のエゴイズムとほとんど同義である。

 

 小説『城』はフランツ・カフカの遺稿として知られる作品である。『ことばの生まれる景色』という本の著者、辻山良雄さんはカフカの作品について次のように語る。「主人公は考えうる限りの苦汁をなめ続ける。しかしそうした救いのなさに打ちひしがれるのも、また文学が与えてくれる体験のひとつである」。そして「たとえそれが土を食べたような後味の悪いものであったとしても、深く刻まれた体験しか、そのあとの人生に役に立つものはない」という。

 

 人は土を食べたような後味の悪いものであっても、後味の悪い苦しみ、痛み、悲劇を美化することなく後味の悪さをそのまま引きずっていかなければならないことがある。しかしその後味の悪さの中でしか出会えないものがある。それがキリストの十字架である。人間のエゴイズムの中で捨てられた石(ルカ20:17)が、実は人間のエゴイズムを打ち砕くキリストの十字架であることを覚えたい(ルカ20:18、詩篇51:19参照)。