人生の時

芹野 創 牧師

 

わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか(詩篇22章2節)

 

 詩篇22編は、キリストの十字架の苦難を預言したものと言われる詩篇である。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩篇22:2)という言葉はキリストが十字架で叫んだ言葉でもある。また「わたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(22:18)という言葉は十字架の出来事を描いている印象がある。そのような理由から詩篇22編を「メシアの受難」と呼ぶ人もいる。詩篇22編は苦難に満ちた言葉から始まる。しかしこの苦難の言葉たちが私たちの大きな支えや力になることがある。苦難の時に最も必要な言葉が「苦難を解消するための道筋や答え」であるとは限らない。不思議なことに苦難が尚、苦難のままであり続けても、そこにただ「寄り添う言葉」が人を支えることがある。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。大切なことはこの問いに対する「答え」ではなく、このやり場のない叫びが今日もここにあるということではないだろうか。

 作家、遠藤周作は「生活」と「人生」は違うということを語っている。遠藤周作はその違いを「生活の時間」と「人生の時」と呼んでいる。そして「人生の時」は「生活の時間」に差し込んでくるのだという。そして人生の時は多くの場合、苦しみと共に訪れると語り、「日常生活のなかに人生を挿入するのは苦しみである」と言う。

 

 人は多くの場合、「生活の時間」を積み重ねて自分の人生を生きていると考えている。「生活の時間」とは日常生活の様々な事柄を考えている時間である。それは日常せいかつを送る上で欠かすことのできない時間であるに違いない。しかし人に与えられているのは「生活の時間」だけではない。「生活の時間」をどれだけうまく采配できたとしても「人生の時」はコントロールできないのである。「人生の時」は誰にでも不意に訪れるのである。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という問いは「生活の時間」をいくら整えても、いくら積み重ねても解決はしないだろう。

 

 本日から受難週を迎える。多くの人が自分の「生活の時間」の中に「人生の時」が不意に差し込んで、戸惑い、苦しみ、悩む経験を強いられる時、神を礼拝する者は「礼拝」を通してそれぞれの「人生の時」と向き合い、そこにキリストの十字架と復活という福音の出来事を新たに示され、また再び「生活の時間」へと送り出されていくのである。