思い出しなさい

芹野 創牧師

 

人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている(ルカによる福音書24章7節)

 

 キリスト復活の前日である安息日の出来事について聖書は何も語らない。「安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23:56)という理由とは別に、キリストを失った悲しみと虚しさに満ちた「沈黙の一日」があったに違いない。そういう「沈黙」が私たちの人生にも訪れることがある。しかし本当に「沈黙すること」は難しい。私たちは「沈黙」をかき消すことに、悲しみや虚しさを乗り越える活路があると思い込んでしまうことがある。しかし「沈黙」をかき消しても、人は虚しさや悲しみの「続き」を生きていくことしかできないのである。「沈黙」をかき消して、様々な言葉や情報にしがみついて生きようとしても、虚しさや悲しみが突然なくなることはない。しかし私たちは悲しみの「続き」の中で「キリストがお話しになったことを思い出しなさい」(ルカ24:6)という言葉に出会うのである。

 荒川源吾という方の『歌集 青の時計』という本がある。「時計」は誰にでも平等に時を刻んでいるが、その「時計」に「青」というイメージを重ね合わせた表現について、詩人の河津聖恵さんは「空の高みでもあり地の底でもあり、受容でもあり拒絶でもある青」という言葉を寄せている。「青の時計」は、空の高みのように気持ちよく晴れ渡り、人生の様々な事柄を受け入れていく「時」を刻むだけではなく、地の底で誰の目にも触れず悲しみ嘆きながら人生の苦悩を拒絶していく「時」を刻んでいくことを表現しているのかもしれない。人は自分の人生に起こる様々な事柄を受容したり、拒絶したりしながら、決して同じ「青」にはならない「自分だけの時計」を持っているのではないだろうか。

 

 私たちはイースターの時にこそキリストの福音の約束を改めて思い起こしたい。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(ルカ24:7)。今私たちにとって大切なことは、この福音の約束を「いつ」婦人たちが思い出したのかということである。それは「沈黙の一日」を経験した後であった。別の言い方をすれば、ただ悲しみの「続き」を生きていく私たちの「沈黙」の時が、福音の約束を「思い出す」ためになくてはならない時間となったのである。人生に起こる様々な事柄を受容したり、拒絶したりしながら、決して同じ「青」にはならない「自分だけの青の時計」が「沈黙」という時を刻むのなら、その「沈黙」はキリストの福音の約束を「思い出す」ための時間となる。イースターが深い「沈黙」の中で静かに始まったことを改めて思い出したい。