十字架しか見えない時

芹野 創 牧師

 

わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました(ルカによる福音書24章21節)

 

 ルカ福音書はキリストの復活の後エマオに向かう二人の弟子たちの姿が描かれている。しかし彼らの顔には希望はがなかった(ルカ24:17参照)。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(ルカ24:21)。人が希望を失うのは「未来の不確かさ」ではなく「過去の悲劇の大きさと経験値」にあるのかもしれない。

 

 希望を失う時、人は過去にとらわれ苦難の十字架しか見えなくなる。「十字架という過去の悲劇の大きさが復活の希望を遮ってしまう」。これは誰一人例外なく全ての弟子たち、また私たちに当てはまる出来事である。「あまりにも辛い過去の出来事が、明日への希望を断ち切ってしまう」ということが全ての人の土台である。私たちの信仰はこの土台に立つ時に初めて問われるものである。十字架の先にある復活が、信仰に継続と希望と力を与える出来事であることを覚えたい。

 

 『生きがいについて』という本の著者・神谷美恵子さんは日記で、自分がキリスト者にならないのはキリストが三十歳という若さで亡くなったからだと語る。「三〇才といえば心身共に絶頂の時。その時思う理想と、六十五にして経験する病と老いに何年もくらすことは、何というちがいがあることだろう!私はまだしもBuddha(ブッダ)のほうに、人生の栄華もその空しさも経験し老境にまで至って考えたことのほうに惹かれる」。「年老いていくことの苦しみを経験値として持たないキリストに、人の本当の苦悩を理解できたはずがない」という思いは確かに的を得ていると言える。しかしそこにはキリストの復活が一切語られていないこともまた事実である。

 

 キリストの復活の知らせを聞いても、人生の苦難や困難がなくなるわけではないし、苦難の十字架しか見えないことがある。二人の弟子たちのように復活の知らせを聞きながらも十字架から逃げていく道を選ぶこともある。しかし復活を信じて「来た道を引き返し」、もう一度十字架のもとに引き返すことを止めるものはどこにもないのである(ルカ24:33)。

 

 

 精神科医のR・D・レインは「アイデンティティとは、自分が自分に語って聞かせるストーリーである」と語った。私たちは自分で納得できる人生のストーリーを自ら組み立てるのである。私たちは自分の人生を自分で決めなければならない。「来た道を引き返す」力強い意志と復活の信仰が私たちの「希望」である。