キリストの手足

芹野 創 牧師

 

わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ(ルカによる福音書24章39節)

 

 「わたしの手や足を見なさい。ましさくわたしだ。」(ルカ24:39)。私たちはこの言葉からキリストの十字架の出来事をイメージする。キリストが十字架につけられた時、その手足には釘が打ち込まれ、その痛みと苦しみが私たちのためであったことを私たちは聖書を通して知らされている(イザヤ53章等)。しかし福音書は十字架の場面において「手」や「足」という言葉を一度も使っていない。

 ではどうして私たちはキリストが十字架につけられた時、その手足には釘が打ち込まれ、体に傷を負ったというイメージを持っているのだろうか。それは十字架の場面ではなく、キリストの復活の場面で語られているからである(ヨハネ20:25)。

 

  「復活を信じないトマスの物語」はヨハネ福音書にしか出てこない。私たちはルカ福音書が語る「わたしの手や足を見なさい」というキリストの言葉に、「十字架の傷を負った手足」とは少し違ったメッセージを見出すことができるかもしれない。

 

 学校などの教育現場において教職員の心のケアが社会的な課題の一つになっている。大分県の教育委員会の事例が興味深い。それは元教員12人を「こころのコンシェルジュ」に委嘱し、学校を巡回しながら教職員への相談業務に当たるというものである。年々相談件数は増加しているが、一方で相談に当たる「こころのコンシェルジュ」側の変化も興味深い。コンシェルジュは経験のある元教員だけに、開始当初は相談者に「指導」をしてしまう姿もあったという。しかし研修や経験を重ねる中で傾聴の姿勢が身に付き、悩みに寄り添う役割が根付いてきたという。悩みに寄り添う役割は言葉のやりとりの中だけで完結することばかりではないのだろう。

 

 

 ルカ福音書において「キリストの手足」は十字架の傷ではなく、むしろ寄り添う姿を象徴していると言える。特に「手」に関わる記述は多くの場面で描かれている(4:40,5:13,8:53-55,14:3-4等)。またキリストの「足」は復活の日の夕方、エマオに向かって歩いていく二人の弟子たちに寄り添う「足」であった。十字架しか見えなくなった時、苦しみしか見えなくなった時、その場所から離れていこうとする私たちにそっと寄り添う「足」である。

 

 私たちは「キリストの手足」が、私たちの苦しみや悲しみにどこまでも寄り添う手足であることを知らされている。「わたしの手や足を見なさい。ましさくわたしだ。」