いのちのパンを携えて

芹野 創 牧師

 

わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(ヨハネ6章35節)

 

キリストは「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と語った。この世には人の命を支える二つの「いのちのパン」があるということである。一つは「食べ物としてのパン」であり肉体的な命を支えるパンである。このパンがなければ人は肉体的な命を保つことができない。しかし人の命は肉体だけではない。創世記が記す通り、人は「霊」をもち、心をもち、人生に意味を求める存在である。この時、人の「心の命」を支えるのは「食べ物としてのパン」ではなく朽ちることのない「いのちのパン」である。

 出エジプト記ではイスラエルの民の命を救った物語として、「天からマナが与えられる」という出来事が記されている(出エジプト16:4以下)。マナがどのようなものだったのかということについて、聖書は「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」と語る(出16:14)。この一節は様々な解釈があり、「露と霧」とでも訳するのが適当とする解釈もある。霧が晴れ露が蒸発するとマナがあったというのだから、「天からのマナ」が出来上がる過程は「霧の向こう側」にあって、私たちには見ることができない。私たちの「心の命」を支えてくれる「いのちのパン」は、私たちの日常生活から一線を画すような形で「霧の向こう側」に隠れてしまっていることが多いのかもしれない。

 

 作家の須賀敦子は「霧」という言葉を人生の大きなキーワードとした人だったと思う。『ミラノ霧の風景』のあとがきに、須賀敦子は「いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる」と記している。彼女にとって書くということは「霧の向こうの世界」にいる人々への手紙であった。

 

 私たちの「心の命」を支える「いのちのパン」として、キリストは私の苦悩を十字架で背負い歩まれた。その十字架の苦悩は、私たちの目にはっきりと見えないことの方が多い。その十字架が深い霧に包まれて、存在しないかのように感じられることもある。しかし霧深く「いのちのパン」であるキリストの十字架と復活がはっきりと見えなくても、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)という言葉に支えられ、キリストが共に歩まれることを信じたい。「わたしが命のパンである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」(ヨハネ6:34,40)。